天比登都柱(あめのひとつばしら) それは夢の島・壱岐
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勝本浦郷土史6

勝本浦郷土史6

天ヶ原遺跡と、串山見る目浦遺跡

 天ヶ原は勝本の北端にある。昭和三六年二月、防潮堤築堤の際に、この波打際から、中広型銅鉾三本が発掘されたが、未調査のまま三ヶ所に分配保存されているが、いつの時代の物であるか判定されていない。

 この附近には箱式石棺も発見されて、無文土器片も表採されている。

 見る目浦遺跡は、串山半島の西南にあり、昭和五五年に勝本町は、九州大学考古学研究室に、発掘調査を依頼して調査した結果、縄文中期土器片、弥生式土器片、陶質土器片、把手(アワビ起こし)土錘、鯨骨製品が出土して、海底には数多くのアワビ貝の殻があった。

 又昭和六三年には再度、見る目浦の発掘調査がなされ、いろいろな発掘品と共に、亀トが発見され、新たな注目を集めている。ト骨は壱岐でも鹿猪の卜骨十数点が発見されているが、亀トの発掘はこれが初めてである。卜骨とは当時鹿猪や亀の甲羅を焼いて、そのひび割れによって、うらないの道具にしていた。原の辻󠄀、カラカミ、天ヶ原、串山の遺跡の出土品から、弥生時代の頃の勝本を考えて見ると、特徴的な事はカラカミ、天ヶ原、串山の遺跡の出土品は、漁具の出土品が多く、農具が少ないという事である。漁具としては、鯨骨品のアワビ起こし、骨製のヤスリ、銛、鉄銛、鉄製の釣針、石錘、土錘等である。

 串山のアワビ起こしの把手等の数多い事は、炉跡の存在が認められるところから、アワビの加工生産の跡ではないかと見られている。

 

原の󠄀󠄀遺跡

 原の辻󠄀遺跡は、芦辺町、石田町にまたがる台地にあり、幡鉾川流域の平地にまで広がる遺跡で普通、深江田原といわれている東西南北ともに一キロメートル程の広がりをもつもので、諫早平野に次ぐ県下第二の耕地面積を有する平野である。大正の末頃、壱岐の考古学者、松本友雄氏により発見されて以来、昭和十四年の幡鉾川改修と耕地整理の折に多くの土器、石器、骨角器が発見され、又金属器として銅鏡片、銅鏃が出土した。戦後は昭和二三年から三六年にかけて数次にわたる発掘調査を行い多くの発掘がなされている。その主なるものは次の通りである。

 昭和二六年には、紀元後十四年から四〇年の間に鑄造された中国の貨泉が出土している。二八年には弥生中期の堅穴式住居跡地が発見された。住居跡は壱岐においての発見は現在では一例だけという。

 四九年には弥生前期末から中期にかけての甕棺五二基、石棺十九基が発見された。銅剣片、ガラス製トンボ玉、勾玉、管玉等が副葬されていた。

 五一年には規矩、獣帯鏡一面、有餉銅釧三個、それにガラス玉と水晶玉一千百五三個が表採されている。その内容からその当時の壱岐の王墓ではないかといわれていた。

 平成四年より幡鉾川流域総合整備事業に伴う範囲確認調査が実施され、遺跡の保存と開発との調整後に平成五年度から発掘調査を実施した。平成五年度からの発掘調査の成果は弥生前期ー終末期にかけて大規模な多重環濠が丘陵を取り囲んでいることが明らかになった事と、遺跡に出入する主要な通路が発見された事である。環濠の規模は南北八五〇メートル、東西約三五〇メートルの平面楕円形の範囲を外濠、中豪、内濠が三重にめぐっているものと推測されるという。

 濠は幅二メートルー四メートル、深さ一メートルー二・五メートルで断面がV字形になっている内濠と中豪の間隔は約五メートルでこの間に土塁を築いていた事が推測される。

 中壕と外環の間隔は約三〇メートルで、この間に高床倉庫郡や、水田跡柵列の柱穴郡、貯蔵穴郡の遺構の一部も検出されている。

 環濠集落を守るための防禦用溝は、本遺跡では防禦用と水田に利用する排水路としても使われた事が推測され、環濠には橋をかけて通行していたと推測される。橋脚桟や柱穴郡も検出されている。

 出土遺物の主なるものは、弥生前期から後期の溝状遺構内から武具や武器、農工具、生活用具等、木製品も多量に出土している中に、弥生時代の前期のものと見られる、日本国内最古といわれる楯が出土した。木楯はこれまで東海、瀬戸内地方で出土例はあるが、九州では初めてという。

 平成六年八月からの調査では、遺跡の中心といわれる丘陵部頂上で、弥生時代中期から後期の建造物の柱穴が確認されている。

 東京国立文化財研究所では、多数確認された柱穴について、配置状況や立地条件等から、建物は高床式で当時祭りごと等に使用されていたと思われると述べ、建物の時代は前後するが、合計四棟建てられ、最大のものは南北七メートル、東西四メートルあるといわれている。この柱穴は直径一メートルを超える柱穴も多く、縄文時代の巨大建造物の存在が確認されている。

 こうした数多くの貴重な発掘品から、魏志倭人伝に記されている、一支国(壱岐国)の王都であったのではと、学者間にもいわれて内外の脚光と注目をされていたが、平成七年十一月十五日、十六日の両日、考古学、古代史、建築学の権威者七人の研究者が集まり、原の辻󠄀遺跡調査指導委員会の席上、座長をつとめた西谷正九州大教授は、委員会の見解として、原の辻󠄀遺跡を弥生時代の国の拠点集落王都と考えたいとの提案に、他の六人の委員も異論はなかった事によって、原の辻󠄀遺跡は魏志倭人伝の中の、一支国の国都であった事が公式に裏づけされたのである。




 

【壱岐の象徴・猿岩】

猿 岩

 

【全国の月讀神社、月讀宮の元宮】 

月 讀 神 社