勝本浦郷土史5
第二節 壱岐の遺跡
日本列島からはみ出している壱岐の島は、いつ頃から人が生息してどんな生活をしていたのであろうか、非常に興味ある大切な事であるが、我々は過去のあまりむずかしい事は考えないようにして生きている人が多いのであるが、壱岐の古代人の生活を知るには、壱岐の各所より発掘された土器、石器、鉄器、銅器、古墳その他多くの遺跡発掘調査による、発掘品を考古学者の鑑定によって大体を知ることができる。
考古学者の研究では縄文土器を使用したのが、西紀前二世紀以前で、弥生土器を使用したのが、西紀前三百年から三世紀までとし、その五世紀頃までを古墳時代とすることが定説となっているようである。
西紀前一万年頃までを石器時代といわれているようであるが、何千年とか何万年とか実に想像をはるかに越えた事ではあるが、そうした定説を根拠にして表採され発掘された物によって、人類の根源が生活の実態が裏付けがなされている。中国では可成り早く文字が使われて、弥生時代後期の事についても、魏志倭人伝等によって、当時の倭人(日本人)の生活の一部を知ることができるが、その他については採掘された遺跡に頼る外にない。
縄文時代以前のものとして発見されたものに、昭和四六年一月六日湯の本西海岸六郎瀬鼻附近から今より一、二〇〇万年から三〇〇万年にかけてアジア大陸に広く生息していたと伝えられる、ステゴドン象の化石が発見され、早速調査が進められ、肋骨、脊髄、骨、臼歯、大體骨、牙等が次々に掘り出され、この古い型のステゴドン象が、いつの時代に壱岐がアジア大陸と地続きであったか、考古学の上からも重要なものとされている。又平成四年七月の西日本新聞には、神戸市垂水日向遺跡から、約七、三〇〇年前、縄文時代早期の人の足跡が見つかった、足跡としては日本最古のものとされている。足跡は幅十メートル、長さ五〇メートルの範囲で、十五列計四七個あったと報じている。テレビを見ていると、何百万年、何千万年とされる発掘品が、度々報導されるが想像を絶することである。
縄文遺跡
鎌崎名切川原遺跡
壱岐における縄文遺跡としては、郷ノ浦鎌崎名切川原遺跡がある、昭和五二、三年頃、壱岐郷土館長であった横山順が表採を行い、縄文時代(紀元前四、五千年前)前期前半、前期後半、中期前半の土器、石器を採取している。
其後五八年七月には郷ノ浦港の外港整備事業の道路建設のため、緊急発掘が行われた際も、縄文時代中期を中心として、紀元前四、五千年前の遺物が多く発見されている。壱岐での縄文遺跡の発見例は調査も十分とはいえない状況の中で発見例も少なく、鎌崎の名切川原にあれだけの遺跡がある、調査すれば壱岐にもまだ多くの縄文遺跡が地下に埋もれている事が考えられる。四、五千年前という実に気の遠くなるような縄文時代である。壱岐の縄文時代の状況を知るには、今のところ名切川原に見られるような、当時の食糧貯蔵所と見られる貯蔵穴である。
貯蔵穴は十六ヶ所あり、岸壁に掘られ、袋状の構造で直径一メートル前後、深さ五〇センチ足らずの穴で、底辺に木片等を敷きその上に主にドングリの実、カシの実、松カサ等を貯蔵し、上に石を乗せて湧水でさらしながら保存していたという。長崎県下でも壱岐が初めてという。今では潮にかくれる海岸に、どうしてこうした遺構が残されていたのか、そうした場所的問題もあり関心がもたれている。
松崎海岸遺跡
勝本町本宮南触にある松崎海岸遺跡は、昭和五四年十月試掘調査され、僅か二日間であったが、多くの土器片、石器が採出されている。そのうち確かなものとして、縄文前期、中期前葉の土器、中期前葉の土器、後期前葉の土器、石器が多い。その外に壱岐商校の北の平地に、前神田遺跡があった。
この地からは僅かに縄文土器片が表採されているが、あまりにも小片のため、時期を確実に定める事はできなかったとされている。
弥生遺跡
カラカミ遺跡
カラカミ遺跡は、勝本町立右東触から仲触にかけての山頂一帯で、香良加美神社を中心として、その周辺に拡がっており、松本友雄氏によって、大正七、八年頃発見された。カラカミ遺跡より出土した、弥生中期の丹塗り壺型土器は、国の重要文化財に指定されている。遺跡の調査は数次に亘って行われ、カラカミ遺跡は弥生全期にわたるが、前期の土器片は少なく、上層式、下層式土器が主流をなしている。昭和二七年の調査の時は、弥生時代中期後半の土器、方格、規矩鏡片、片刄、石斧、鉄器、鹿角、柄付刀子、銅鏃、大型の鯨骨等が出土した。
昭和五二年には香良加美神社の南側斜面に、幅三メートル、深さ一・五メートルのV字型の溝が発見され、この溝の中には弥生時代の後期前半から、中頃までの土器があり、その他多くの鉄器類、銅器、鯨骨製の銛先、全海式土器片と四点の卜骨が検出されている。卜骨は鹿の肩、甲骨のもの二点と、猪の肩甲骨を利用したもの二点であった。卜骨は当時の行事や交易など、鹿の骨、亀の甲羅を使用していた。昭和五九年の調査では、香良加美神社の北西の地点で、U型の溝が検出された、この溝は香良加美神社を中心に、半径一〇〇メートルの域を取り巻く堀とも見られ、その溝の中から鯨の骨、土器、石器が出ており、この溝が単なる生活のための溝でなく、外敵から集落を守るために造られた堀であるとの見方もあり、弥生時代におけるカラカミの生活が、高地集落であるとの線が強まったとされている。今回発見された堀は、高地性集落である事を実証した点が大きいとされ、この溝から出ている土器、鯨骨は生活用具の不用品を棄てた跡と見られ、貝塚の発見は当時海産物をかなり食用として生活していた事、当時海潮が高く、現在よりも海に近かったのではとの推理がなされている。
【壱岐の象徴・猿岩】
【全国の月讀神社、月讀宮の元宮】