天比登都柱(あめのひとつばしら) それは夢の島・壱岐
また神の世界と地上の世界を結ぶ一本柱の國、それが壱岐

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アジの食品史 Ⅳ武家の時代

源頼朝が鎌倉に幕府を開いた鎌倉時代から豊臣秀吉が天下を平定した安土桃山時代は武家が台頭した時代でした。この時代には、平安時代には重用されていたアジは、この時代の大事な行事食にはあまり使われなくなってきています。承元3(1209)年の任大臣大饗には、鯉、鮒、鯛、鮎などは使われていますが、アジの名がなく、元仁元(1224)年の大饗にも干鮑や鯉、鱸、鯛の名がりますが、アジは使われなかったようです。

 それでも、一般庶民の間では、アジは日常の食品として使用されていました。この時代の日常の食品を比較的よく書き記している庭訓往来(僧玄恵作)には、カツオやマグロ、サバなどと共にアジもあげられています。平安時代と比べると種類数も一段と増えているそうですが、保存食も増えてきます。さらに、発酵食品も開発され、アジの鮨、マグロの黒作り、蟹味噌、このわたなどが作られるようになってきました。

 この時代になると、アジは生産地の漁村ばかりでなく、周辺の小さな漁村からも魚を集め魚市場で荷揚げされていました。元亭2(1322)年には備前(現岡山県)西大寺に魚座(魚市場)があり、「兵庫北関入船納帳」によると、アジ、イワシ、タイ、ナマコ、ワカメなどが生産地以外の津々浦々の村から集められ、アジは嶋(小豆島か)平山に船籍をもつ船が魚座に荷揚げしていました。

 室町時代になると、食膳にのぼる魚介類の種類数はさらに多くなり、それと共に干物の魚類数も増え、タイ、サケ、アユ、イワシ、サバなどは生乾し、開き干し、目刺しなどに加工されるようになってきます。開き干しの名前はこの時代になって始めて使われるようになりました。

 安土桃山時代になってもアジは高貴な人々の饗膳に出されていないようですが、昭和61(1986)年大阪市東区道修町にあった秀吉の時代の魚市場跡から魚の名前の書いた木札が大量に発掘されました。一番多い名前がムロ(室鯵)で、次にサハ(鯖)、三番目にアチまたはアシ(鯵)、ヒアシ(干鯵)だそうです。この時代にもアジは大量に水揚げされていたことがわかりますが、時の関白秀吉が天皇をもてなしたり、大名にもてなされたりした饗膳にはアジの名前がありません。アジは一般庶民の食品として多く利用されていたようです。
 
汐彩屋のアジひらき
 




 

【壱岐の象徴・猿岩】

猿 岩

 

【全国の月讀神社、月讀宮の元宮】 

月 讀 神 社