天比登都柱(あめのひとつばしら) それは夢の島・壱岐
また神の世界と地上の世界を結ぶ一本柱の國、それが壱岐

どうぞ、食を文化をご堪能ください

ちょっとお勉強(アジなどの干し物)

海に囲まれた日本には、魚を干して保存性を高めた干物が古くからの食文化として伝わっています。

干物の作り方にもいろいろありますが、一般的なのは塩味をつけてから干す方法です。魚肉に塩を加えると魚肉のタ
ンパク質に粘りが出ます。この状態で低温で乾燥させるとタンパク質の構造が変わり、身に弾力がでて風味が増します。
さらに干す間にうまみ成分も増えて、干物ならではの味わいが生まれるのです。縄文時代の貝塚には、すでに魚や貝を干した形跡が見られるといいますが、干物はどんな歴史をたどってきたのでしょうか。

奈良時代の献上品リストに干物が登場

奈良時代には、各地で作られた干物が、宮廷への献上品や租税として納められていました。交通も保存技術も発達していなかった当時、日本各地から奈良の都に海の幸を運ぶには、干物に加工する必要があったのです。
『正倉院文書』などの記録によると、イワシなどの小魚の丸干しは「きたひ」、鮭やマス、スズキなど大きな魚の身を細く切って干したものは「すわやり」と呼ばれていました。こうした記録から、このころすでに塩味をつけて干したり、煮てから干すなど現在にも伝わる製法が確立していたことがわかります。

平安時代の食卓に欠かせなかった干物

 平安時代になると、漁獲量とともに干物の生産量もぐんと増えます。京の宮廷では、干物を「ひもの」と読まずに「からもの」と読み、酒宴に欠かせない肴でした。『源氏物語』にも、光源氏たち平安貴族が興じた宴の酒肴として、この「からもの」が登場しています。これらは生鮮魚介類の少なかった平安京ではたいへん珍重され、都の市には干し魚の店が出ていたと、古書にも書かれています。

江戸時代には各地の名産干物が発展

干物づくりが各地で大きく発展したのは江戸時代。当時地方の大名は、幕府への献上品として、また藩の産業振興のためにも、競って名産品の製造を奨励したからです。元禄時代に編纂された『本朝食鑑』には、小田原のあじの干物を絶賛した記述もあります。その他、明石の干しだこ、長崎のからすみなど、今に伝わる名産干物の多くは、各藩の努力の賜物でもあったのです。
 さらに、食生活が豊かになっていった江戸時代には、干物は庶民の食卓にものぼるようになります。『東海道中膝栗毛』の弥次さん、喜多さんがお伊勢参りに行ったように旅をする人も多く、日持ちのする干物は、当時から旅のみやげとしても人気だったそうです。

現在は塩を控えた生干しが主流

現在も魚の干物は、ふだんのおかずにも、旅のみやげにも欠かせない存在です。ただし、大きく様変わりしたのは、塩をきかせてしっかり干したものよりも、塩を控えてさっと干した生干しや一夜干しなどが主流になった点です。これには、保存技術や交通の発達で、生に近い状態でも流通できるようになったことや、塩分を控えたいという健康志向も影響しています。
 生干しや一夜干しは、干物とはいえ保存性はそれほど高くないので、必ず冷蔵か冷凍保存します。また、干物の最大の敵は「油焼け」、つまり脂質の酸化が進んで、風味が落ちてしまうことです。これを防ぐには、ぴったりとラップをして空気に触れないように保存するのが鉄則。そして、風味を損なわないうちに早めにいただきましょう。




現在、全国で作られるアジのひらきなど多数の生産地があります。

その中でも玄界灘で獲れたアジ、そして現在、汐彩屋さんには生産量に限界があります。
かなりの肉体労働、精魂込めて作られた汐彩屋のアジのひらき、アジみりん、美味しいです
 




 

【壱岐の象徴・猿岩】

猿 岩

 

【全国の月讀神社、月讀宮の元宮】 

月 讀 神 社