私が何者か知らない方も多いと思うので、 篤っちゃんすら知らないであろうことを書きます
私の曽祖父は立石熊太郎と申します。←強そうやなwww
えー祖母が明治34年生まれなので、恐らく明治10年くらいの生まれだと聞いてます。
そう、西南戦争の時ですよね。
実は曽祖父の時代は裕福だったらしく、娘三人なので跡継ぎがおらず、一家に一艘ない時代に数艘持ちの熊太郎は現在の漁協に船を貸し出して賃料をもらっていたそうです。
通称『立熊(たてくま)』で通っていた時代です。
勝本町で最初にベランダというものができたのはうちです。
祖母は優秀だったらしく、旧藩の影響か女学校当時、毎年【松浦賞】なるものをもらっていたそうです。現在の知事賞にあたると思います。
小さな頃から冊子『ほととぎす』に親しんでいたみたいです。
この話は現・大久保本店で有名になった大久保のおばあちゃんからよく聞かされました。
ほぼ毎日、うちに遊びに来てたから(笑)
さて娘三人、この時代は養子を取ります。
で迎えたのが立石元右衛門(旧姓・坂本)、漁が上手だったみたいで、よく祖母は『海におる魚は全部とってきよった』、『男はおだてて働かせるに限る』とも(笑)
で、立石熊太郎に戻ります。
彼は立石家の長男です。
次男は中原
三男は原田友右衛門
図にすれば良いのですが、なかなか難しくて(汗)
そして三人とも苗字が違うのは知りません(笑)
次男・中原家のお名前は存じ上げません。
この中原家の分家のご長男が今、辰の島遊覧船を操業されてらっしゃる中原さんです。
僕の記憶では19t船の船頭だった時代の記憶が強いですね。それと親父の何回忌とかある度にお見かけしてました。
何でだろう?と思ってましたもん。親父若くて亡くなったのに、いろんな方が来られて酒飲んで『たてくま』、『たてもと』、『なかはら』、『はらとく』小さい時思ってました。誰やねん!!と(笑)
三男・原田友右衛門
ここからは長くなるかも(笑)
彼の長男が原田徳衛です。勝本浦で40歳以上の方で知らない人はいないんじゃないかと思います。
そして長女が嫁いだ先が田間の村川家です。
村川家についてはうちの親父と村川啓次兄ちゃんが二従兄弟ということで留めておきます(笑)。
通称『はらとく』、最も活気ある時代だったんじゃないでしょうか?男三人生まれて三人を船に乗せる時代。
そして漁協には在部(農業地区)の方の職員比率が高い時代です。
はらとくさんは、のちに町会議員にもなられます。
みんないずれは町長と期待してたみたいですけどね。
金子岩三議員と昵懇だったと聞いています。また岩三議員も素晴らしかったと思います。
岩三議員までは(笑)←深く突っ込まないように。
で、はらとくさんの孫が原田政和(父・真臣)、同級生です(笑)
実は立熊のこと、立元のこと、僕の同級生は全く知らないと思います。
それは親父が早世したからもあるんですが(笑)
それとうちの両親は晩婚?といっても28歳と26歳に昭和41年11月1日に結婚してます。
当時としては遅いんですね。
しかも、2年間子どもができず、僕が生まれたのはほぼ3年後、親父が31歳、おふくろが29歳です。
立石という本家に男の子が生まれたと大騒ぎだったらしいです。←はい、記憶にございませんw
そして、今はこんな体たらくですがwww
しかし、小学校に入ると友達の親父さんたちは若くて同級生だったりで、誰もうちの親父のことも知らないし、ましてや熊太郎などwww
というのが僕の成り立ちです(笑)
【壱岐の象徴・猿岩】
【全国の月讀神社、月讀宮の元宮】