宮崎県(宮崎市)・宮崎神宮
先月参拝させて頂いたのは宮崎八幡宮、ここは宮崎神宮。
厳かな気持ちになるよね。
残りの人生、せっかくだから楽しく生きる、と信じ込み飛び出した10月19日だったと思う。
結局、自分を縛り自分勝手にひとりもがいたりしてる。
確かに金銭的な部分は否定できないが、それだけじゃないんだとも思う。
お釈迦様のテーマは人生『苦』だったとも教えられ、聞いたこともある。
まだまだ、行が足りないと反省する。何かと反省し過ぎだと言われる(笑)そう、自分が悪いからそうなった的な考え方
をしてしまいがちです。まあ、世の中、自分の周りにしても自分の日常で忙しいから、そんなに僕が気を遣う必要はない
んだけどね〜♪
感謝!
常に感謝なのです(笑)
基本情報
所在地:〒880-0053 宮崎県宮崎市神宮2-4-1
電話:0985-27-4004
【Official site】
宮崎神宮(みやざきじんぐう)は、宮崎県宮崎市神宮にある神社である。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。
社名
歴史は古く、「神武天皇宮(社)」、「神武天皇御廟」などと称されたが、明治6年(1873年)に「宮崎神社」と改称し、更に同11年「宮崎宮」と改称、大正2年(1913年)に神宮号が許可されて現社名となった。地元では「神武さま」と呼ばれ親しまれている。
祭神
神日本磐余彦尊(神武天皇)=ヤマト・イワレヒコ=を主祭神とし、父神鸕鷀草葺不合尊と母神玉依姫命の2柱を配祀する。
由緒
社伝によれば、鎮座地は神武天皇が東征以前に宮を営んだ地で、後に九州に下向してきた皇孫の建磐龍命(阿蘇神社の祭神)がその縁に因んで創祀したといい、崇神天皇の時代に初めて社殿が創建され、景行天皇の熊襲征討に際して重ねて造営がなされ、更に応神天皇の時代からは『国造本紀』に載せる日向国造の祖、老男命(おいおのみこと)が祀るようになったと伝える。
古くから鎮座していたのは確からしいが上古の由緒は不明で、文献上の初見は鎌倉時代初めまで降り、当地の地頭職にあった土持信綱が現在地に社殿を造営し、皇宮屋(こぐや)(現 境外摂社)から建久8年(1197年)に遷座したという記録である。『神皇正統記』に神武天皇が「日向の宮崎の宮」から東征したと記すように、中世には東征以前に宮崎に帝都があったとする説も定着し、当宮をこれに充てるようになったと思われ(『古事記』に載せる高千穂宮(高千穂神社)に擬する説もある)、以後神武天皇に対する崇敬から、歴代の領主により深く崇敬された。文明5年(1473年 )に伊東祐国が蓮ヶ池(現宮崎市村角町)と下北方(同下北方町)の一部を奉献したのを始め、永禄3年(1560年)に有馬永純が社領として2石5斗を寄進、同5年(1562年)には伊東義祐が下北方・江平(現宮崎市江平町一帯)から領地を割いて奉献、更に天正5年(1577年)には島津義久が米穀や幣帛を奉献している。
江戸時代には、延岡藩が当地を所領し、寛永21年(1644年)藩主有馬康純が社殿を造営、天保10年(1839年)にも藩主内藤政義による修造が行われている。もっとも、神武天皇を祀る古社とはいえ、江戸時代までは地方の1古社に過ぎず、当宮が広く全国的に知られるようになったのは、明治維新の王政復古の大号令で「神武創業の始め」に復することが唱導され、当宮が脚光を浴びるようになってからである。
明治6年に 県社と定められた(この時宮崎神社と改称。)が、神武天皇の最初の宮地であるとの伝承から特別の待遇を受けるようになり、同8年に国幣中社、同18年には官幣大社へと累進した。同32年には総裁を二条基弘、会長を島津忠亮とする「神武天皇御降誕大祭会」が組織され、高木兼寛が幹事長となって全国から寄付金を集めて境内整備を行い、同40年にほぼ現在の姿となったが、更に昭和15年、紀元2600年を記念した拡大整備事業(その規模は橿原神宮に次いで全国2位であったという)で、現在の境内が完成した。戦後は神社本庁の別表神社となり、現在に至っている。
神事
・神武天皇祭(4月3日) - 神事流鏑馬を行うが、この流鏑馬は昭和15年の紀元2600年奉祝行事の一環として古儀に則り復 興されたもの。ちなみに4月3日は神武天皇崩御の日である。
・宮崎神宮大祭(御神幸祭)(例祭後の土・日曜日) - 当宮から瀬頭と大淀の御旅所(隔年で交替)まで、神輿を中心に シャンシャン馬や稚児行列が練り歩く。
明治時代には、天照(アマテラス)大神の孫(天孫)ニニギノミコト(瓊瓊杵尊)の御陵と伝えられる前方後円墳に立つ奈古(なご)神社(宮崎市南方町、明治4年以前は長屋神社とも呼んだ)が宮崎神宮大祭のスタート地点となり、宮崎神宮まで練り歩いた。
※宮崎県内では、西都市・西都原古墳群内の男狭穂塚(九州最大の古墳、宮内庁陵墓参考地)もニニギノミコト(瓊瓊杵尊)の御陵との伝説がある。
社殿
本殿は方3間の切妻造妻入。前面に桁行4間の両下造の渡殿が接し、正面7間側面4間の幣殿に続く。幣殿の前面には桁行3間の向拝が付き、左右には渡廊を経て御料屋(向かって左)、神饌所(同右)が結合されている。御料屋と神饌所はそれぞれ妻を正面に向けた正面3間側面4間の切妻造で、また幣殿の前方には方3間切妻造平入の拝所が立つ。以上いずれも明治40年の造替にかかり、狭野杉を用材とする銅板葺であるが、杉を社殿建築の用材とする珍しい例である。なお、本殿以下の主要社殿には千木・鰹木が設けられ、その直線的で簡素な佇まいには、伊勢神宮の神明造の影響が顕著である。設計は、東洋の古建築を研究し、その学問的体系を確立した東京帝国大学名誉教授伊東忠太である。平成22年(2010年)に「国土の歴史的景観に寄与している」として本殿を始め11棟の建造物が国の登録有形文化財として登録された。神社建築としての登録は宮崎県内では日向市の大御神社に次いで2例目である。
【壱岐の象徴・猿岩】
【全国の月讀神社、月讀宮の元宮】