天比登都柱(あめのひとつばしら) それは夢の島・壱岐
また神の世界と地上の世界を結ぶ一本柱の國、それが壱岐

どうぞ、食を文化をご堪能ください

壱岐・河合曾良の墓

20160708

これ、看板考えないと(汗)

わからんバイ!

たとえ方向音痴だとしても…。

城山一周したやん!

展望台からは絶景の眺めが一望。

我が母校・壱岐市立(旧勝本町立)勝本小学校、そのずっと先には離島の離島、辰の島海水浴場

河合曽良、諏訪で生まれて壱岐という島で最期を迎える。

無念な気持ちもあっただろうけど、これも【ご縁】なんだろうね。

心経一巻

あっ、稲荷大明神がすぐ上にあったのでまとめてUP
もちろん、航海安全だそうです。


基本情報
住所:〒811-5531 長崎県壱岐市勝本町坂本触
電話:0920-42-0095

【Official Site】
























































河合曾良
河合 曾良(かわい そら 慶安2年(1649年) - 宝永7年5月22日(1710年6月18日)頃)は、江戸時代中期の俳諧師。没年月日については、巡見使随員の日誌に無いため、不正確なものとなっている。
松尾芭蕉の『奥の細道』における奥州・北陸の旅に同行した弟子。蕉門十哲の一人とされる。

経歴
信濃国高島城下の下桑原村(現長野県諏訪市)の高野七兵衛の長男として生まれる。幼名は与左衛門。その後、両親が亡くなったため伯母の養子となり、岩波庄右衛門正字と名乗る。12歳の時、養父母が亡くなったため伊勢国長島の住職・深泉良成の元に引き取られる。
寛文8年(1668年)頃より長島藩主松平康尚に仕え、河合惣五郎を名乗る。天和元年(1681年)頃に致仕。江戸の吉川惟足に吉川神道を学ぶ。元禄2年(1689年)、松尾芭蕉の『奥の細道』の旅に同行し、「曾良旅日記」(天理大学附属天理図書館所蔵、重要文化財)を残した。
宝永6年(1709年)に幕府の巡見使随員となり九州を廻るが、翌年、壱岐国可須村風本(現長崎県壱岐市勝本浦)で巡見の途上に病没した。享年62。戒名は賢翁宗臣居士。墓所は壱岐島の能満寺。元文5年(1740年)、没後30年を経て故郷・諏訪の正願寺にも墓標が建てられた。
平成6年(1994年)5月24日に旧勝本町と諏訪市が河合曾良の終焉の地と生誕の地としての縁で友好都市提携を結び、旧勝本町が旧壱岐郡3町と合併(平成の大合併)後も壱岐市に受け継がれた。

 




 

【壱岐の象徴・猿岩】

猿 岩

 

【全国の月讀神社、月讀宮の元宮】 

月 讀 神 社