勝本浦郷土史14
朝鮮捕虜と日本の文化
豊臣秀吉の朝鮮侵攻は、朝鮮はもとより大きな被害をうけたが、日本側としても、人的物的、被害を余儀なくされ、結果的には彼我共に評判のわるい結果となった。秀吉の朝鮮侵攻四百年を経過した今日、当時の状況を正しく判断して記す事は不可能な事ではあるが、秀吉の大陸侵攻に際しては肥前名護屋、壱岐対馬、特に壱岐の勝本港での果たした役割は、秀吉の事を起こしたその善悪は別として、朝鮮侵攻の基地乃ち補給基地として、国家的に果たしたその位置的存在価値は、勝本港始まって以来、史上最大の事であって、その役割を遺憾なく果たしたといえよう。
朝鮮侵攻は戦果としては得るものはなく、評判も後世においてもよくなかった反面、日本文化に益する事は多かった。日本軍の武将によって連れられてきた多くの捕虜の中には、多くの陶工達が有田焼や薩摩焼等、日本の陶滋器文化の基礎を造った事は広く知られている事である。
又、金属、活字、印刷技術もこの時に日本にもたらされたものである。その他、歴史、地誌、医学といったように、その頃の日本は未開の国であり、朝鮮文化が当時の日本の知識人達に与えた影響は、計り知れないものがあった。
武末城の復元について
武末城の復元計画のある事を、昭和の終わり頃新聞で読んだ事がある。それ以前、朝鮮進攻の拠点となった佐賀県鎮西町の名護屋城の保存整備事業が、佐賀県教育委員会で進められ、朝鮮進攻という厳しい反省に立って、日本と朝鮮との交流史にスポットをあてる計画であったと記憶している。勝本町も壱岐創始以来、最大の由緒を歴史に残すため、町も可能な保存事業をなすべきであると考える。
それは城山に立派な城を築くことではない。
武末城は城として城閣があった事は記されていない。松林にて北西向きに城壁を構え、海上の展望に便せりと記されている。敵が攻めて来る時に守るための城ではなく、補給兵站地としての城であったので、本丸の虎口に接する物見櫓があったに過ぎない。大型の屋根をもつ三棟の建物があった可能性もあるとされているが、武末城は秀吉の命により、松浦鎮信が主として築き、後に本田因幡守に之を守らしめているので、城番の武士の住居があった事は当然である。秀吉は壱岐に来て、前線指揮をする決心でそのため、秀吉の風本における御座所を、何よりも優先して建築を命じていることは前述の通りであるが、風本に来る事もなく、又御座所が出来た事も記録にない。今後秀吉の朝鮮進攻の兵站基地としての、勝本城址を復元保存整備するとすれば、当時の遺稿遺跡をたよりに、城壁の石はできるだけ当時の石とし、壊された部分を修復し、物見櫓を造る位いでよいのではと思われる。物見櫓以上の樓閣を仮想して造る必要はない。当時のありの侭の姿を復元すればよいのである。
島民は昔、朝鮮進攻の折の城であった事は知っているが、城山に行って説明案内板だけでは、豊臣秀吉が命じて築いた有名な城址であるという感覚に乏しい。観光の時代であるリゾート構想もあろうが、観光には生きた観光乃ち歴史を活用することが最もふさわしく、壱岐で最も歴史的価値のある城山を一大観光地として見直す必要があろう。
第五章 朝鮮通信使
朝鮮との国交回復につとめる
日本と朝鮮の国交は、評判の悪い豊臣秀吉の朝鮮侵攻により断絶していたが、秀吉の死去による、出兵引揚後、数年にして德川家康による、国交回復工作は、家康の命により、朝鮮と至近の距離にある、対馬宗義智及、調信に命じて、朝鮮と修交復旧の事を打診させた。家康曰く、「朝鮮と我と通ずる事久し、然るに一旦兵火を交え、両国怨を構う、今に於て旧交を尋ぬるは、予の願う所なり、卿先ず書を裁して、彼に送り、成否を試みよ。若し、成るの望あらば、公命と称するも可なりと。」
義智使を朝鮮に遣したが、明人に捕えられて、使を返さず、再び使を使したが、又返さない。義智、柚谷弥助なる者に書を携えて、八郷より撰んだ八人の決死の士を随えさせ行かしめた。弥助等果たして又帰らず、かくして、秀吉に蹂躙された、朝鮮の日本国に対する、不信の念を取り除くには、容易でなかったが、家康の厳命もあり、幾度も使を送って、国交回復の糸口を求めて、積極的に動いた。義智は次に石田甚左衛門を使し、漸く彼の辺将の書を得て帰る、返書の大意は、「兵禍既に十年講和の説に勉めて従わんも、明国の命令を待たざる可らず、貴国の使屢(しば)々(しば)来たりたるも、悉く明将之を捕え去り、今に至るも返さず、為に答書を発せざりし所(ゆ)以(えん)なり。若し能く信を以て求となして、好を求めなば、明の朝廷も自ら貴国の求めに応ぜらるべく、朝鮮亦之に随うべしと。」これより先、井手智正等、朝鮮に往来して、屡々俘虜を還し、和を求めしめた。
是に至って、禮曹参議成、以て文書を義智に送り曰く、「壬辰の歳、秀吉故無くして兵を動かし辱(はづかしめ)、祖先の陵に及ぶ。実に痛恨の極にして、年を経るも忘れ難し、故に我より、先ず自ら好を通ずるの理なし。但し今の右府の為す所、悉く秀吉の為す所に反すと聞く。今若し先ず書を致さば、則ち、我亦相報ゆる道あるべし、惟貴国の誠意を以て事を完了するに在るのみ。」と之において義智、智正等好機逸すべからずとなし、事の達成を欲し、島川内匠をして、国書を偽造して、朝鮮に送り、且つ領内の罪人を縛し、王陵を犯せる賊なりと称して、之を朝鮮に送る。これによりて、和議始めて成る。義智は井手智正をして、駿府に使し、前将軍家康に報ぜしめた。家康大いに悦び、引見して道袍、白銀を與うとあり。
慶長十一年(一六〇六)朝鮮の洄溟堂(松雲大師)等が、探賊使として日本に派遣された。一行は徳川秀忠と、伏見城に合い、親善関係樹立にあたって、二度と朝鮮を侵さないという確約をうけて帰る。
彼我の交流
洄溟堂は戦陣で救国活動をした高僧で、韓国の偉人といわれた人である。慶長十一年(一六〇六)日本国使派遣に次いで、慶長十二年(一六〇七)徳川家康の派遣した和平使に対する回礼刷還使(捕虜を還す使)として、呂祐吉を正使とする使節が、日本に派遣された。刷還とは、秀吉の朝鮮侵攻の際に拉(ら)致(ち)された人々を、調査して帰国させることを含むものである。
呂祐吉一行四百六七名は、四隻の船に分乗して、対馬に向かい対馬島主、宗義智の案内で、江戸に着き、徳川秀忠との間で、国書が交換される事によって、親善関係が再び回復されたのである。使節一行は、往復に七ヶ月余を費やしたが、各地で拉致された者を探し出して、千四百余名を朝鮮に連れて帰った。慶長十四年(一六〇九)国交回復を祝う日本側の使節三百余名が朝鮮に行った。徳川幕府に対して、警戒を怠らぬ朝鮮側は、ソウル(京城)への登上を許さず、釜山まで接待役人を送って、日本の使節を還している。
無礼と感じられるが、家康としてはこうした事も、甘んじてうけねばならなかったのである。これが慣例となって、その後も幕府派遣の使節は、京城までの上京は許されていない。そして幕府は、その後の将軍の襲職や、朝鮮国王の即位の度毎に、両方の使節が往来している。朝鮮からは慶長十二年(一六〇七)から、文化八年(一八一一)の間に、十二回にわたり使節が派遣されているが、始めの三回は幕府の使節派遣に対する回礼使兼刷還使であり、後の九回が通信使と呼ばれている。
朝鮮通信使は慶長十二年(一六〇七)より、宝暦十三年(一七六三)まで、往路十一回返路八回勝本を経由している。将軍の代が変わると先ず対馬藩主から、大慶参判使が朝鮮に派遣され、将軍の交代を報告する。
次に修聘参判使が送られ、朝鮮通信使の派遣を要請した。李王朝で通信使が正式に決まると、迎聘参判使が対馬から釜山に渡り、通信使の到着を出迎えるのである。京城(ソウル)を出発した通信使は、陸路釜山におもむき、対馬藩の使に出迎えられ、一行は騎船に分乗して、対馬鰐浦から府中(厳原)を経て、壱岐の風本浦に寄港宿泊した。
始め頃の李王朝からの使節は、豊臣秀吉の朝鮮侵攻に際しての、日本の将兵によって連行された捕虜を探し出して、送り還すための刷還使を兼ねていたもので、純然たる慶賀の使節ではなかったが、回を重ねるに従って、朝鮮懐柔策となり、迎接も派手となり、通信使が通過する沿道の諸大名も、宿泊所の建設、道路の整備、信徒の警備饗応等もすべてが、諸大名の自前ですることが課せられた。沿道の諸大名も容易でなかったのである。対馬藩主も朝鮮国と幕府の親善の仲介役の関係もあって、常に通信使の一行の先導役をつとめなければならなかった。徳川幕府は将軍の威勢を内外に誇示する絶好の機会であって、国賓である使節の江戸往返の途、その宿舎にあたる各藩では、総力を挙げて歓待に努力するように指示した。
【壱岐の象徴・猿岩】
【全国の月讀神社、月讀宮の元宮】