基本情報
所在地:〒860-8601 熊本市中央区手取本町1番1号
電話:096-328-2111
【Official site】
熊本市
熊本市(くまもとし)は、日本の熊本県にある市の一つ。同県の県庁所在地、また日本最南端の政令指定都市である。
概要
県の総面積の5.3%にあたる約390km2の市域に、県内人口の約41.8%にあたる約74万人の市民が住む。2012年(平成24年)4月1日に九州で3番目の政令指定都市に移行した。九州では、福岡市、北九州市についで、3番目に人口が多い。
肥後国府や肥後国分寺が置かれた地である。現在の市街は、細川氏熊本藩54万石の城下町を基礎に発展してきた。戦前は陸軍第6師団や国の出先機関が置かれ、九州を代表する軍都・行政都市として栄えた。2011年(平成23年)3月12日、九州新幹線鹿児島ルートが全線開通し、熊本駅に新幹線駅が併設された。
中心部は熊本城天守閣から見て南東から東に広がる。ただし、熊本城などからの眺望を確保するための環境基準により、中心部を含む熊本城周辺地域約550haには厳しい高さ制限がある。そのため中心部には高層ビルが存在しないが、当該地域の外にある熊本駅周辺の新都心地区には、くまもと森都心などの高層ビルが立地する。また、中心部を囲むように立地する熊本駅・上熊本駅・新水前寺駅のJR九州3駅が交通結節とされており、中心部との間が熊本市電によってつながれている。
森の都
当市の雅称「森の都」は、1930年(昭和5年)制定の熊本市歌の歌詞に取り入れられている。また、高度経済成長期からの急激な都市化で緑地が減少した1972年(昭和47年)10月2日、熊本市議会にて『「森の都」都市宣言に関する決議』が採択され、同市を「森の都」と称することが公式決定された。都市計画にも自然と共存した街づくりが盛り込まれており、「美しく活力ある森の都くまもと」をテーマに都市景観の形成を進めている。
一方で熊本市は、中心部を流れる白川・坪井川・井芹川の3本の川や水前寺成趣園、あるいは豊富な地下水、水前寺江津湖湧水群(平成の名水百選)などを称えて「水の都」とも呼ばれている。
その他、市民が「水と森の都」、市が「水と緑の都」と呼んでいる例が見られる。
地理
位置・地形
福岡市から南へ約110km、鹿児島市から北へ約180km、熊本県の中央部よりやや北側に位置している。
旧城下町を中心に市街地が発展してきた。熊本城の東側に上通、下通、サンロード新市街と呼ばれるアーケード街が1km以上にわたって連なり、その周辺に中心市街地は形成されている。中心繁華街である通町筋・辛島町界隈には市役所、日本郵政株式会社九州支社、日本最大規模のバスターミナルである熊本交通センター(1日6,012本)、鶴屋百貨店などがある。なお、熊本駅(副都心)は中心街から南西に2km程離れて立地しており、その間は市電や路線バスでの移動となる。
阿蘇外輪山へと続く市の北東部や東部は、一部に立田山や託麻三山、白川沿いの河岸段丘など起伏のある地形もあるが、全体としては肥後台地(合志台地・託麻原(託麻台地))と呼ばれる阿蘇の火山灰土からなるなだらかで農地や住宅地に適した丘陵地となっているため、国道57号沿線の健軍地区 - 東町(東町・東本町団地)・桜木・帯山・長嶺・託麻地区 -武蔵ヶ丘地区を軸に住宅地や東町、長嶺、大江をはじめとする住宅団地が広がっており、さらに市域を超えて菊陽町(光の森)や合志市、益城町まで住宅地が拡大しつつある。熊本市の人口は中央部とともに東部・北東部に集中している(ベッドタウン)。これは、1953年の6.26水害の復興として、ゆるやかな丘陵地の北東部に住宅地が形成されていったため。
市の南東部 - 南部は熊本平野の一角をなし、平坦な風景が広がる。江津湖の南側から加勢川沿いの田迎・御幸・川尻周辺、さらに緑川を挟んで南側に位置する富合・城南にかけては低湿地であり、以前は大雨が降ると浸水する被害もでていたが、排水設備が整備された現在では宅地化も進んでいる(大規模なニュータウンとして、さんさん一丁目-二丁目など)。旧来からの広々とした田園風景も残っており、所々に小川やクリークなども見受けられる。富合南西部・城南南部は雁回山がそびえ、緩やかな丘陵地帯となっている。飽田・天明地区は主に干拓によって拓かれた田園地帯である。
市の西部は有明海(島原湾)に面し、白川や坪井川が注ぎ込む。海は遠浅で港湾とするには適しておらず、臨海部はほとんど工業化・都市化していない。わずかに沖合に人工島を造成し熊本港が建設され、対岸の長崎県島原市とのフェリー航路が設定されているが、周辺土地の分譲はほとんど進んでいない。市の北西側には金峰山(665m)・二の岳(685m)などがそびえ、その東麓は中心部から伸びる住宅地と森林が入り交じる。
北部・植木は主に金峰山北東の斜面地と、阿蘇から続く肥後台地の最西端からなり、独立して植木台地とも呼ばれる(この台地と玉名平野との境目が田原坂である)。名産として名高いスイカ生産や野菜生産をはじめとした畑作が中心で、ビニールハウスが一面に広がる。植木町の北部(田底・宮原)は合志川流域であり、菊鹿盆地と一体化した丘陵・田園地帯である。
東方にそびえる阿蘇外輪山一帯に降り注いだ雨は地下に浸透し、約20年かけて平野部に達する。この豊かな地下水によって熊本市の水道水はまかなわれ、水前寺成趣園や江津湖などにも湧出している。なお、世界の50万人以上の都市で、水道水源を100%地下水だけでまかなっているのは熊本市だけといわれており、「日本一の地下水都市」または「世界一の地下水都市」ともいわれる。しかし、近年は田畑の耕作放棄、森林の管理放棄などによる涵養地の減少や工場の取水などのため、地下水位は低下しつつある。現在、熊本市は菊陽町や大津町など白川流域の自治体と提携し、県やJA菊池、関係する土地改良区と共に協議会を発足させ、農家に水田から転換した畑などに一定期間水張りしてもらうなど地下水保全事業に取り組んでいる。
主要河川 :白川、緑川
隣接する自治体
熊本県
玉名市
宇土市
宇城市
合志市
菊池市
山鹿市
上益城郡嘉島町
上益城郡益城町
上益城郡甲佐町
上益城郡御船町
菊池郡菊陽町
玉名郡玉東町
長崎県
(海上を隔て)長崎県島原市
歴史
古代から加藤清正入国まで
豊かな土壌や有明海の海の幸にはぐくまれた熊本市地区は古来からの居住形跡があり、旧石器時代から古墳時代にかけての遺跡(貝塚、古墳なども含む)が市内各所で多数確認されている。
律令制下では、概ね肥後国の飽田郡・託麻郡の区域に当たる。8世紀、水前寺成趣園そばの砂取に肥後国の国府(託麻国府)が置かれ、その近くに国分寺・国分尼寺も設置されたとされる。その後国府は城南の益城国府を経て、平安時代中期までに二本木(飽田国府)に移転しているが、すべて現在の熊本市域内での移転であることから、少なくとも奈良・平安期の時点で熊本市地区が肥後国の中心として機能していたことがわかる。また、神話時代からの歴史とされている健軍神社をはじめ、8世紀には城南に熊本県内で最古の寺院とされる「陳内廃寺」や味噌の神様として名高い「味噌天神」が、9世紀には池上町に山岳寺院として「池辺寺」が、10世紀には現在の藤崎台県営野球場の位置に藤崎八旛宮がそれぞれ設置され、同じころには北岡神社も創建されている。
古代官道(駅路)も熊本市域を縦断しており、大宰府から南下してきた西海道の延長として立田山の西から蚕養駅(子飼)を通って託麻の国府へ、さらに城南方面へ進んでいた。律令政治の崩壊とともに一時肥後の中心地としての機能は失うが、二本木はその後も大きな集落として継続し、古国府と呼ばれることになる。その後、現在の熊本市北部には寄進型荘園で有名な鹿子木荘が拓かれる。
南北朝の騒乱の一端として1378年(南朝:天授4年、北朝:永和4年)、託麻原の合戦が市内東部で繰り広げられ、京塚など合戦の故事が由来の地名も残っている。その後、応仁年間(1467年 - 1469年)に出田氏が千葉城(現在のNHK熊本放送局所在地)を居城とし、1496年(明応5年)、豊後守護大友氏に属する鹿子木氏が茶臼山西南麓に隈本城を築城した。やがて鹿子木氏が菊池氏についたため、1550年(天文19年)、大友氏配下の城親冬(じょう ちかふゆ)が入った。
戦国時代の肥後国は数十の国衆が割拠していたが、安土桃山時代に入り豊臣秀吉の九州平定により、1587年(天正15年)に佐々成政が肥後49万石に封ぜられ、隈本城へ入る。しかし、失政により肥後の国衆一揆が起きると、翌年改易され、代わって加藤清正が肥後北半24万石に封ぜられ、隈本城を居城とし統治を開始。治山、治水や干拓による土地開発などを積極的に行い、荒廃していた土地を改良し生産力を向上させた。
一方、鎌倉時代に河尻実明が河尻城を築いたことから発展した、現在の川尻地区は港町として栄え、早くから海外交易も行われていた。中国、明の時代の地理書にも「開懐世利」として記述されている。また、城南町では隈庄城が築かれ、益城地方の中心としての役割を担った。
江戸時代
清正は1607年(慶長12年)に新たな隈本城を築き、その後、当地の呼称を隈本から熊本へと改名した。これ以降、熊本は近世城下町として発展していくことになる。加藤氏は清正の子、忠広の代で断絶し、1632年(寛永9年)以降は小倉藩から移封され熊本藩主となった、細川氏の城下町として発展していくことになる。
近世城下町としての整備は、清正が肥後に入国した天正時代に開始された。まず水害対策と内堀としての活用のため坪井川をつけかえ、古国府の商家も一部移す形で、城の南側(現在の市電呉服町電停一帯)に町人・職人町が作られた。その後城の西側にも町人・職人町が拡大するが、従来からの町人・職人町が「古町」と呼ばれたのに対し、城の西側に開かれた新しい町人町は「新町」と呼ばれることになる。熊本城下町の特徴として碁盤の目状に区画された町の中に寺院が1つずつ設置されており、現在でもこの町のつくりが引き継がれている。有事の際の防衛上の観点からも見逃せない形態となっている。なお、古町界隈は明治以降、昭和戦前期まで熊本市の繁華街の一つとして賑わいを見せていた。
一方、武家屋敷は、城の東側の山崎から高田原(現在の熊本市の繁華街一帯)・坪井にかけての一帯や、城の北の台地上にあたる京町に造成された(京町は、関ヶ原の戦いで敗れた小西行長の家臣や柳川藩の家臣を清正が引き取って住まわせた町である)。このうち、上級武士は城内(二の丸)や内坪井・山崎に居を構え、下級武士は手取・千反畑・高田原エリアに住んだとされる。
また、1601年(慶長6年)に初代の長六橋(橋名は架橋された1601年 = 慶長6年より)がかかり、薩摩街道や日向往還、南阿蘇へ向かう南郷往還の分岐点として迎町が賑わいを見せ、幕末には安政橋(当時の安巳橋)の対岸に新しい武家屋敷町 = 新屋敷が造成される。これらの区域が近代における熊本区 - 熊本市としてのおおまかな輪郭となる。
郊外では薩摩街道の宿場町、緑川水系の物流集積地(港町)として前代から引き続いて、川尻が栄えた。藩の奉行所や税関、軍港(御船手)がおかれたほか、薩摩藩の参勤交代路として本陣もおかれた。稲荷神社の所在地として発展した高橋は、坪井川の付け替え後に熊本の外港としても繁栄した。川尻と高橋は熊本(城下町)、高瀬、八代とともに肥後の五ケ町の一つに数えられることになる。
また、北へ向かう豊前街道と三池街道の分岐点に元禄時代、「味取新町」という宿場町が造られたが、ここが後に植木の中心商店街となる。参勤交代道として整備された豊後街道には里数木として黒髪に一里木が、龍田に二里木が植えられ、現在もバス停名として名残をとどめる(菊陽町にある三里木は駅名にもなった)。二里木のすぐ東側には17世紀半ば、細川藩に招かれた宮本武蔵ゆかりの史跡である武蔵塚がある。東へ向かう木山往還沿いには17世紀後半、桃山式回遊庭園の水前寺成趣園(水前寺公園)が造られた。
明治時代 - 第二次大戦前
幕末から明治にかけて、開明思想家として知られる横井小楠の活躍や熊本洋学校の設置、熊本の自由民権主義を牽引した植木学校の開校、熊本バンド結成など熊本に近代化の波が押し寄せる一方で、旧体制側である士族の反乱も勃発する。1876年(明治9年)には神風連の乱がおこり、そして1877年(明治10年)の西南戦争により植木の田原坂では激しい戦闘が繰り広げられ、さらに主戦場となった熊本の町は熊本城の天守閣を含め灰燼に帰した。また、1889年(明治22年)には大地震(熊本地震)にも見舞われた。
しかし、その後の熊本市地区は、熊本県(一時期は白川県)の県庁所在地としてだけでなく、九州の中央部にある主要都市ということで「九州の中核都市」と位置づけられ、熊本鎮台・第五高等学校など、九州域内を管轄する国家機関・教育機関が相次いで設置されていく。1878年(明治11年)設置の熊本区を経て、1889年(明治22年)、市町村制度施行により市制施行。当初の人口は42,725人。1900年(明治33年)に成立した鉄道唱歌第2集山陽・九州編で「九州一の大都会 人口五万四千あり」と歌われるに至った。そのため、新聞発行や電灯設置、放送局の開局などで熊本が九州初の事業地となることも多く、また第五高等学校が設置されたことから、夏目漱石や小泉八雲などの著名な作家が教師として熊本に赴き、熊本を舞台とした作品を残している(なお、森鴎外も数日ながらも熊本を訪れ、熊本にも関わりが深い作品(「阿部一族」)を残している)。
市内中心部の山崎には明治以降、武家屋敷を取り壊した跡地に練兵場をはじめとした軍施設が設置されたため、市街地が軍施設で分断されてしまい都市発展の障害となっていた。その後軍用地は、大正時代までに城内を除いてほとんどが大江や渡鹿など郊外に移転し、その跡地には新市街をはじめとした新しい商業・娯楽の中心地が形成された(軍用地であった名残として練兵町という町名が残っている他、軍用地の移転に力を入れた当時の市長・辛島格の名前を取って辛島町という町も誕生している)。
大正に入ると近代都市としての整備に拍車がかかる。熊本軽便鉄道・菊池軌道・御船鉄道・熊本市電・バスといった交通機関の拡充は市街地の拡大にもつながり、1921年(大正10年)には春日や黒髪、島崎など周辺町村を大合併して人口は13万となり、これまで旧城下町内だけにとどまっていた市域が郊外へ大きく広がることになった。また、1922年(大正11年)当時の市長・高橋守雄は市三大事業(上水道の整備・市内電車の開業・歩兵第23連隊の完全移転)を掲げ、これを実行に移すことに成功した。それまで南千反畑にあった市役所も、1923年(大正12年)に手取本町の現在地に移転している。
昭和になると桜町一帯に勧業館や公会堂といった施設が立ち並び、隣接する新市街には当時の最新の娯楽である映画館が多数オープンし、それまでの古町にかわる新たな都市核として急発展する。市内中心部には「千徳百貨店」や「銀丁百貨店」といった百貨店も開業。
熊本市は九州一の大都会となり、代表する都市として発展を続けていった。
第二次大戦後 - 現在
1945年(昭和20年)7月の大空襲で熊本市の市街地は焼け野原になり、さらに1953年6月の大水害、1957年(昭和32年)7月の大水害で市内の低地を中心に大きな被害を出したことから、東部の丘陵地帯に新しい住宅地が造られた。
これまでの水前寺・出水といった郊外の住宅地に加え、旧軍用地であった大江・渡鹿地区には、住宅団地や専売公社などのほか、熊本商科大学、熊本女子大学(のちに月出に移転し、跡地には県立劇場が建っている)、熊本電波工業高等専門学校(1973年(昭和48年)に合志市へ移転)、警察学校などが建設され、既存の熊本高校などとあわせ、文教地区として成熟した。
また、戦時中に飛行場や三菱の飛行機工場が建設され、市電が延伸してきた健軍町一帯は戦後、自衛隊や官公庁、大規模な公営団地、学校などが建てられ人口が急増。市電の終点ターミナルとしての役割も得たことから商店街や歓楽街も形成され、熊本市東部地区の一大拠点に成長した。
さらに県庁が水前寺に移転し、長嶺・月出にあった熊本空港が高遊原に移転した1970年代以降は長嶺や武蔵ヶ丘・楠方面に住宅地が拡大した。特に1971年(昭和46年) - 1972年(昭和47年)にかけて整備された熊本東バイパス(神水以北区間)はこれらの住宅地の背骨として重要な交通路となり、畑や雑木林が占めていた丘陵地は急速に宅地化された。
1960年代には国道3号の清水バイパスや川尻バイパスも開通。1971年(昭和46年)には九州自動車道の熊本インターチェンジが開設されるなど、市内周辺の道路交通網が整備されたが、その一方では熊延鉄道の廃止、市電の路線縮小などが行われた。鉄軌道に代わる新たな輸送機関の要として、1969年(昭和44年)に大規模バスセンターである熊本交通センターが開業している。1980年代以降も浜線バイパス、第二空港線など主要道路網の整備が充実してきたが、渋滞問題や道路事情の悪化に伴い鉄道や市電への再評価の気運も高まっている。
商業は千徳百貨店や銀丁百貨店に代わり、戦後世代の鶴屋百貨店や大洋デパート(後のダイエー熊本下通店、2014年5月閉店)、岩田屋伊勢丹(後の県民百貨店、2015年2月閉店)、スーパーマーケット系では寿屋やニコニコ堂が躍進し、商業地図は大きく塗り変わる。また、鶴屋や大洋の進出以降、通町筋や下通が、熊本を代表する繁華街として確立されるに至った。
戦後は軍都の面が縮小したものの人口増加は続き(1977年(昭和52年)には人口50万突破)、行政・商業・観光の都市として順調な発展を続けた。しかし、1963年(昭和38年)に北九州市、1972年(昭和47年)に福岡市が政令指定都市に移行し、熊本市の拠点性は低下した。ただし、現在も九州を管轄する国の機関の一部(戦前に設置された機関が中心)は熊本市に置かれており、九州域内の主要な拠点都市としての役割は継続している。
平成の大合併において導入された期間限定の政令指定都市の要件緩和に基き、富合町、城南町、植木町の周辺自治体と合併して、2012年(平成24年)4月1日に全国20番目(九州で3番目)の政令指定都市へ移行した。さらに道州制導入後の州都誘致を目指す動きも活発化してきている。
年表(古代 - 近代)
646年(大化2年) - 砂取(現 熊本商業高校付近)に肥後の国府及び兵力4軍団が設置される。
713年(和銅6年) - 味噌天神創建。
935年(承平5年) - 藤崎八旛宮が設置される。
1278年(弘安元年) - 大慈禅寺創建。
1378年(南朝:天授4年、北朝:永和4年) - 託麻原の合戦 (参考:熊本県の歴史#征西府の成立と崩壊、など)
1469年(文明元年) - 千葉城が茶臼山(現 熊本城)の東端に菊池一族の出田秀信により築城。
1496年(明応5年) - 隈本城が茶臼山の西南麓に菊池一族の鹿子木親員(かのこぎ ちかかず)により築城。
1588年(天正16年) - 加藤清正が肥後半国の領主として熊本に本拠を置く。
1601年(慶長6年) - 長六橋架橋。
1607年(慶長12年) - 熊本城が加藤清正により築城。隈本から熊本に改称。
1632年(寛永9年) - 細川忠利が熊本入府し、肥後領主となる。
1640年(寛永17年) - 宮本武蔵が熊本藩に招かれる。
1671年(寛文11年) - 水前寺成趣園完成。
1754年(宝暦4年) - 藩校「時習館」開設。総長は内膳家長岡忠英。
1756年(宝暦6年) - 「再春館」、「蕃滋園」が開設される。
年表(近現代)
1871年(明治4年)鎮西鎮台設置。熊本洋学校開設。廃藩置県により熊本県が設置される。
1873年(明治6年) - 鎮西鎮台を熊本鎮台に改称。
1874年(明治7年) - 白川新聞発行(九州最初の新聞)。
1876年(明治9年) - 熊本洋学校が閉鎖される。
10月24日 - 神風連の乱が起こる。
1877年(明治10年)
西南戦争勃発。薩摩反乱軍が熊本鎮台攻撃。政府側が勝利するが、攻撃直前に熊本城天守が失火により焼失。戦闘により城下町も焼失。
博愛社(日本赤十字社の前身)が熊本洋学校の旧教師館に設立される。
1878年(明治11年) - 郡区町村編制法施行により、熊本を熊本区とする。
1886年(明治19年) - 熊本逓信管理局(郵便・電信関連)設置。
1887年(明治20年) - 第五高等中学校(後の第五高等学校、現 熊本大学)が熊本区域に創立される。
1889年(明治22年)
4月1日 - 市制施行。日本で最初に市制施行した市の一つ(人口42,725人)。市役所は南千反畑に設置。
5月 - 陸軍第6師団設置。
7月28日、熊本地震発生。
1890年(明治23年) - 10月10日、第五高等中学校開校(当時、九州唯一の高等中学校)。
1891年(明治24年)
7月1日 - 九州鉄道高瀬(現 玉名) - 熊本間開業により、熊本駅が開業。
7月1日 - 熊本電灯会社(後の熊本電気)が電灯供給開始。九州で最初の電気事業[12]。
11月19日 - ラフカディオ・ハーン(後の小泉八雲)が春日駅(現・熊本駅)に到着[13]。1894年(明治27年)10月に熊本を離れるまでの約3年間、第五高等中学校の英語・ラテン語教師として教鞭をとった[13]。
1896年(明治29年)4月13日 - 池田駅(現・上熊本駅)に夏目金之助(後の夏目漱石)が到着。1900年(明治33年)7月20日に熊本を離れるまでの約4年3ヶ月、第五高等学校の英語教師として教鞭をとった。
1898年(明治31年) - 第23連隊練兵場が山崎から渡鹿に移転。
1907年(明治40年) - 熊本軽便鉄道開業。
1913年(大正2年) - 百貫電車開業。
1921年(大正10年) - 6月1日、飽託郡内の11町村を編入(人口133,467人)。
当時使用された「大熊本市」という呼称は、旧熊本市に対するより広域な熊本市(Greater Kumamoto)という意味が含まれている。
1923年(大正12年) - 熊本市役所が現在地に移転。
1924年(大正13年)
8月1日 - 熊本市電が開業。これに伴い大甲橋が架橋される。
11月27日 - 市内初の上水道が開通。
1927年(昭和2年) - 熊本市営バス運行開始。
1928年(昭和3年) - 九州初のラジオ局(現 NHK熊本放送局)開局。
1929年(昭和4年) - 7月26日、熊本市動物園が開園。
1930年(昭和5年) - 勧業館オープン(のちの産業文化会館)。
1935年(昭和10年) - 水前寺で「新興熊本大博覧会」が開催される。
1943年(昭和18年) - 健軍に三菱重工業の航空機製作工場が作られる。
1945年(昭和20年) - 八景水谷の現・北熊本駐屯地に米軍が駐留する(1956年(昭和31年)まで)。
7月1日 - 熊本大空襲 (死者469人、負傷者552人、焼失家屋約11,000戸)
1949年(昭和24年) - 第1回火の国まつり開催。
1950年(昭和25年) - 7月21日、熊本競輪場が開設される。
1952年(昭和27年) - 鶴屋百貨店と大洋デパートが開業。
1953年(昭和28年) - 6月26日、熊本6.26大水害発生。
1958年(昭和33年) - 熊本でテレビ放送開始。現在の熊本駅の駅舎が完成。
1960年(昭和35年) - 上通オーニング(アーケード)完成。
4月 - 熊本空港開港。
8月 - 熊本城天守復元落成
9月 - 第15回国民体育大会開催。
1962年(昭和37年) - 地方博「躍進熊本大博覧会」が熊本城で開催。
1964年(昭和39年) - 3月31日、熊延鉄道廃線。
1965年(昭和40年) - 2月21日、熊本市交通局(熊本市電)川尻線廃止。
1966年(昭和41年) - 熊本県庁が水前寺の現在地に移転。
1968年(昭和43年) - 熊本市民会館開業。子飼商店街入口前に日本初のスクランブル交差点が設置。
1969年(昭和44年) -下通がアーケード化。
3月5日 - 熊本交通センター開業。
7月1日 - 動物園が江津湖畔に移転する(当初は水辺動物園と呼称していた)。
1970年(昭和45年) - 5月1日、市電坪井線・春竹線廃止。
1971年(昭和46年) - 熊本空港が現在地に移転。パルコ熊本店の前身、長崎屋熊本店開店。
6月30日 - 九州自動車道の熊本インターチェンジ - 植木インターチェンジ間が開通(九州初の高速自動車国道)。
1972年(昭和47年) - 市電、水道町 - 子飼橋間廃止。
1973年(昭和48年)
11月29日 - 市内の大洋デパートで火災発生。死者104人、負傷者108人(大洋デパート火災)。日本のデパート火災としては死者数最大。
現在の県民百貨店の前身、岩田屋伊勢丹オープン。
1976年(昭和51年) - 戦前から営業していた銀丁百貨店閉店。新市街のアーケード完成。
1977年(昭和52年) - 熊本市の人口が50万人を突破
1980年(昭和55年) - ダイエー熊本店(熊本市大江)開業。
1981年(昭和56年) - 現在の熊本市役所庁舎が落成。
1984年(昭和59年) - 熊本市内(周辺の一部の町村を含む)の市外局番を3桁(0962,0963→096)に変更。政令指定都市(都市圏含む)を除けば全国初。
1986年(昭和61年) - 江津湖畔で地方博「グリーンピック'86」開催。
1991年(平成3年)
2月1日 - 飽託郡4町を編入(飽託郡が消滅)。
4月1日 - 熊本市動物園と植物園を一体化し、熊本市動植物園として開園。
9月27日 - 台風19号による暴風で、多大な被害を受ける。
1992年(平成4年) - NHK熊本放送局の基幹機能が福岡に完全移管される。
1993年(平成5年) - 地方博覧会「火の国フェスタくまもと'93」開催。
3月 - 熊本新港がオープン。
1996年(平成8年)4月1日 - 中核市に指定される。
1997年(平成9年) - 男子世界ハンドボール選手権大会開催。
1999年(平成11年) - 第54回国民体育大会開催(くまもと未来国体)。国体道路開通。
2002年(平成14年) - 手取本町(水道町)・上通地区の再開発事業完成。熊本市現代美術館オープン。
2006年(平成18年)
3月18日 - 光の森駅開業。
5月11日 - 5月14日、2006第4回世界女性スポーツ会議くまもと開催。
2008年(平成20年) - 熊本城本丸御殿落成。
2009年(平成21年)
3月31日 - 市の施設である熊本市産業文化会館閉館。
2010年(平成22年) - 3月23日、城南町・植木町を編入。人口が70万人を突破。
2011年(平成23年)
3月5日 - 桜の馬場 城彩苑が熊本城内にて開業。
3月12日 - 九州新幹線全線開業。
6月4日 - 日本初、アジア初のフェアトレード・タウンに認定される[14]。
2012年(平成24年)
4月1日 - 政令指定都市へ移行。
7月12日 - 九州北部豪雨により、白川流域の地域が大きな被害を受ける。
2013年(平成25年)
3月22日 - 日本国内では初となる国連の「生命の水」最優秀賞(水管理部門)を受賞[15]。
2015年(平成27年
2月28日 - 桜町再開発により県民百貨店閉店。
3月31日 - 熊本市交通局|熊本市営バス]]廃止。全路線熊本都市バスに移管。
3月31日 - 桜町再開発により熊本交通センタープラザと隣接するボウリング場が閉館。
9月30日 - 熊本交通センターのターミナルビル閉鎖。
2016年(平成28年)
4月14日 - 熊本地震の前震が発生。熊本市内では最大で震度6弱を観測した。
4月16日 - 熊本地震の本震が発生。熊本市内では最大で震度6強を観測し、前震以上に大きな被害が発生した。
【壱岐の象徴・猿岩】
【全国の月讀神社、月讀宮の元宮】