天比登都柱(あめのひとつばしら) それは夢の島・壱岐
また神の世界と地上の世界を結ぶ一本柱の國、それが壱岐

どうぞ、食を文化をご堪能ください

佐賀県・唐津市20170529

唐津市役所


基本情報
所在地:〒847-8511佐賀県唐津市西城内1番1号
電話:0955-72-9111




【Official site】

唐津市
唐津市(からつし)は、佐賀県の北西に位置し玄界灘に面する市。

概要
旧東松浦郡。中心市街地は唐津藩の城下町が前身。唐津神社の秋季例大祭である唐津くんちや特別名勝の虹の松原、呼子朝市などで有名で、広大な面積に多数の観光資源を有する。
2005年に周辺の東松浦郡呼子町、鎮西町、肥前町、相知町、厳木町、浜玉町、北波多村と合併(新設合併)して新たに唐津市となった。また、2006年に七山村を編入した。
経済圏である唐津都市圏は唐津市及び玄海町で約13万人強の人口を擁しており大部分を唐津市が占めるが、近隣の福岡都市圏、佐賀都市圏方面に通勤・通学する市民も多い(旧浜玉町域は福岡都市圏の5%通勤通学圏、旧厳木町域は佐賀都市圏の10%通勤通学圏である)。

地理
市域は松浦川・玉島川による平野部(唐津平野)と、上場(うわば)と呼ばれる丘陵性の玄武岩台地からなり、東は背振山地、西は伊万里湾、南は杵島山地、北は玄界灘(唐津湾)に面し、唐津湾には松浦川が注ぐ。また北西部の海岸はリアス式で出入りに富み、その地理的特徴からこの地域は古代から大陸方面の海上交通の拠点となった。
地球上における唐津市の位置として特筆すべきことは、東経130度経線が、唐津市の区域のほぼ中心を貫いていることである。このため、西九州自動車道の唐津インターチェンジの本線上に、東経130度が通過していることを示す標識が建てられている。

西は松浦川河口部付近から東の浜崎駅付近まで広がるクロマツの林は虹の松原と呼ばれ、景勝地ならびに唐津の象徴のひとつとして親しまれている。鏡山の展望台からは虹の松原及び唐津市街が一望できる。東松浦半島から松浦川河口付近一帯は玄海国定公園に指定されている。
平野部では江戸時代初期に大規模な治水事業が行われ、ほぼ現在の地形となった。
佐賀市、多久市、伊万里市、福岡県糸島市、長崎県松浦市などと境界を接する。
山:鏡山、三方山、作礼山、椿山、十坊山、衣干山、城山、野高山、石高山、霧差山、岸岳、陣ノ山、日ノ高地山、天山、女山、八幡岳
河川:松浦川、徳須恵川、厳木川、町田川、佐志川、半田川、玉島川
島嶼:高島、鳥島、神集島、加部島、小川島、加唐島、松島、馬渡島、向島

地域

地域    面積    世帯[* 1]    人口[]    旧市町村
(旧唐津市)    127.49    31,904    78,850    唐津市
浜玉町    52.13    3,705    11,148    浜玉町
七山    62.89    670    2,361    七山村
北波多    26.58    1,731    4,691    北波多村
相知町    65.08    2,994    8,447    相知町
厳木町    61.27    1,887    4,819    厳木町
肥前町    46.64    2,607    8,094    肥前町
呼子町    7.28    1,999    5,329    呼子町
鎮西町    37.89    2,189    6,356    鎮西町
計    487.48    49,687    130,095


歴史
略史
現在の市域全体を範囲に曖昧さはあるにせよ包括的に指す地名は、松浦潟や松浦川に見られるごとく、もともと松浦(まつら)が一般的であった。唐津の名は元々17世紀初頭に松浦川河口付近に造成された城下町を指す限定的な名称に過ぎなかったが、1889年(明治22年)町村制施行によって成立した東松浦郡唐津町を母体として周辺の町村の編入と対等合併を繰り返し現在の唐津市となったことで、現在では城下町部分のみならず市域全体をもって唐津と呼ぶことが一般的となっている。
唐津神社社務所に現存する史料によると、1449年(文安6年)の寄進状に唐津大明神との記述があり、これが唐津の名が顕れる現存する最古の史料である。

先史時代
縄文時代晩期には水田稲作が行われていたことが確認されている(菜畑遺跡)。魏志倭人伝に記述のある末盧国(まつろこく、まつらこく)は唐津市近辺に存在したとされている。古墳時代に松浦地方を支配した豪族らによって多数の墳墓が築造された。この代表が国内最古級の前方後円墳・久里双水古墳であり、市内には多数の古墳が残されている。

古代から中世
律令制では肥前国松浦郡に含まれ、『肥前国風土記』によると「松浦郡、郷一拾一所、里廿六、馬伍(うまや)所、烽捌所」とある。また、現在の鏡山に当たる山は「襟振峰は郡の東にあり」と記されているから、郡衙は、鏡地区にあったと推定される。松浦の語の由来は明らかでないが、神功皇后紀(『日本書紀』巻第九 気長足姫尊)摂政前記夏四月の条に「松浦県に至り、願い事をしてから釣り糸をたれると鮎が釣れた。珍しきものと言ったことを、その所の人が名付けて梅図邏(めづら)国という。今松浦というは訛りなりと」(大意)と説明している。また、末盧国の「まつら」がそのまま地名となったともいわれる。万葉集には鏡山、玉島川、松浦川の情景が詠まれている。
平安時代からは肥前国府による統治となったが、国司政治が緩みだした平安期中頃には松浦地方各地の豪族が連合体としてこの地を支配し、松浦党と呼ばれた。現在の唐津市を含む東松浦郡・西松浦郡の地域は上松浦郡と呼ばれ、波多地区(唐津市北波多・伊万里市南波多)を拠点とする波多氏が最大の勢力だった。一族はそれぞれの所領の地名を名乗り、ほかに相知氏、佐志氏、呼子氏などがいた。また、拠点として波多氏の岸岳城(鬼子岳城)や獅子城などの城が築かれた。
戦国時代には龍造寺氏の侵略を防ぐなどしていたが、豊臣秀吉が九州征伐を開始するとこれを出迎え従った。豊臣秀吉は1591年(天正19年)朝鮮出兵(文禄・慶長の役)の拠点として名護屋地区に名護屋城を築城した。1593年(文禄2年)には寺沢広高が唐津藩を与えられ、上松浦地方の統治を始めた。またこの年には秀吉の怒りをかった波多氏が滅ぼされたが、地元民の同情から岸岳末孫の祟りの話がいわれるようになった。

江戸時代
寺沢広高は波多氏の滅亡後、岸岳城の麓に仮城を造営し仮の居城とした。広高は1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いでは東軍方につき、肥後国天草郡4万石を加増され12万3千石の外様大名となった。1602年(慶長7年)より唐津城の本格的な築城を行い、1608年(慶長8年)に城下町共々完成した。このとき東唐津側と地続きであった満島山を切り離し、波多川(現代における松浦川)がそこから唐津湾に注ぐよう流路を変更した。広高は松浦川の流路変更(治水事業)に見られるように土木事業に長けており、防風林として松原の保護育成を行った。これが日本三大松原として今日に残る虹の松原となっている。またこの頃は現在に至る唐津焼の技法が確立された時期でもあり、1615年(元和元年)には中里太郎右衛門陶房などが唐津藩の御用窯に指定されている。
広高の子の堅高は唐津藩二代藩主となったが、天草領に構えていた富岡城が島原の乱の際に一揆側に攻められた際、その責任を取らされ天草領4万石を没収された。堅高は1647年(正保4年)に江戸藩邸で自殺し、また嗣子がなかったために寺沢家は断絶となり、寺沢氏が改易となると唐津藩領は一時天領となった。次に慶安元年(1649年)播磨国明石城主大久保忠職が唐津藩主となった。1678年(延宝6年)には大久保氏が下総国佐倉城に転出し、代わって同地より大給松平乗久が入城。1691年(元禄4年)大給松平氏が志摩国鳥羽城に転出し、同地より土井利益が入城。1762年(宝暦12年)土井氏が下総国古河城に転出し、三河国岡崎城より水野忠任が入城。1817年(文化14年)に、後に天保の改革を行った四代目の水野忠邦が出世目的に遠江国浜松城に転出を希望し、陸奥国棚倉城より小笠原長昌が入城、以後は小笠原氏が統治した。譜代大名6家が入れ替わり、長期間による藩主家の一大支配時代が一度も到来しないまま、明治維新により唐津藩は姿を消した。
1819年(文政2年)、伊勢神宮を参拝後の帰途に京都で見た祇園祭に感動した刀町の石崎嘉兵衛が帰郷後、仲間たちと獅子の頭を製作し、唐津神社に奉納した。この後、唐津神社秋季例大祭である唐津神祭が現在のような曳山を曳く祭に変化していくきっかけとなった。後に一時期は唐津山笠とも呼称したが、その後唐津くんちと呼ぶようになった。

明治から戦前
大正期撮影とみられる唐津くんちの様子。右に唐津軌道の軌道がみられる
廃藩置県にともない唐津藩は唐津県となり、同時に唐津城は本丸が舞鶴公園となり、他の区画は民間払い下げとなり建物も破却された。その後伊万里県、佐賀県、三潴県、長崎県と変遷し1883年(明治16年)に佐賀県が長崎県から分離独立し佐賀県の一部となった。また1889年(明治22年)の町村制施行で東松浦郡唐津町などが発足。昭和初期までに満島村と唐津村を編入し1932年(昭和7年)に市制施行、唐津市となった。
古くから海上交通の拠点であった唐津は、この後貿易の拠点として急速に発展していった。1882年(明治15年)に当時満島にあった唐津港で唐津炭田の石炭輸出を開始。1889年(明治22年)には特別輸出港に指定され、同時に長崎税関唐津出張所が設置された(3年後に税関支署に昇格、戦後降格し門司税関に移管)。さらに後述する鉄道の開通により、以後満島の貿易機能は順次西唐津・大島へ移転し現在に至る港湾地帯を形成した。貿易額は日を追う毎に増大していったが、第一次世界大戦の影響で外資関係が先細りとなり、1920年頃をピークに貿易額は減退し、昭和初期には石炭不況や第二次大戦の影響でさらに衰退していった。
明治末期から大正・昭和初期にかけて唐津の交通は大きく発達した。1898年(明治31年)に唐津興業鉄道(後の唐津鉄道、現JR唐津線)が開通したがこれに収まらず、翌々年の1900年(明治33年)に満島馬車鉄道による馬車軌道が満島松原口(現東唐津駅) - 浜崎松原口(現浜崎駅)間に開通しその後松浦橋を経由して中心部の大手口を越え西唐津果ては佐志まで延伸された(その後石油発動機による運行となるが自動車への転換にともない廃止)。福岡方面への鉄道は1926年(大正15年)に東唐津から博多まで全通、伊万里方面は1935年(昭和10年)にようやく全通したが(ともに北九州鉄道による)、まもなく国有化された。北九州鉄道のバス事業は現在に至る昭和自動車に譲渡された。

戦後から昭和末期
奇しくも唐津は太平洋戦争で空襲を受けなかった。唐津市における戦後復興の象徴として1953年(昭和28年)の舞鶴橋の完成が挙げられる。これをきっかけに東西臨海地域を接続する佐賀県道279号妙見満島線(産業道路)が整備された。また同年には唐津競艇が初開催した。1954年(昭和29年)には鏡村・久里村・鬼塚村・湊村を編入(人口約7万)。戦後のベビーブームと石炭積み出し港としての需要の高揚により、東松浦郡と唐津市を合わせた人口はこの頃最盛を迎え、1955年(昭和30年)の国勢調査人口は約19万人弱であった。

唐津城模擬天守
1955年(昭和30年)、地元財界の有力者であった昭和自動車社長の金子道雄が市長に就任。財政再建のため、翌年には財政再建団体の指定を受けた。この指定は1965年(昭和40年)に解除された。翌年、金子の計画により唐津城に模擬天守が完成。
また電力需要の増大にともない、1967年(昭和42年)唐津港妙見埠頭附近の埋立地に九州電力唐津発電所(火力発電所)1号機(15.6万kW)が運転を開始。1971年(昭和46年)には2号機(37.5万kW)が、その2年後には3号機(50万kW)が運転を開始した。さらに、1975年(昭和50年)には九州電力玄海原子力発電所1号機(55.9万kW)が運転を開始。その他既設の水力発電所なども含め唐津もとい東松浦地域は県内のみならず北部九州の電力供給の要となった。
1970年(昭和45年)には唐津競艇場が広大な土地を有する原地区(鏡)に移転。また同年には唐津市文化会館(現唐津市民会館)が旧唐津神社境内に開館。1980年(昭和55年)には唐津大手口バスセンターが市内大手口に開業。その翌年には複合スポーツ施設である体育の森公園が和多田大土井に開設された。
1982年(昭和57年)には国鉄唐津線の連続立体交差化事業が完成。翌年には筑肥線(筑肥東線)の電化開業、筑肥線(筑肥東線)と唐津線の短絡、福岡市地下鉄空港線との直通運転が一挙に行われた。

平成
1994年(平成6年)に現唐津市域の市町村に玄海町を加えた10市町村で懇話会「唐津・東松浦合併懇話会」を設置。

行政区域の変遷
旧唐津市以外の2005年(平成17年)以降に合併した町村の変遷については「東松浦郡」を参照
1871年(明治4年) - 廃藩置県により唐津藩が廃止。代わりに唐津県が設置されるが、統廃合を繰り返して1883年に佐賀県となる。
1889年(明治22年)4月1日 - 町村制施行により、東松浦郡に22の町村が発足する。現唐津市に含まれるのは、入野村、打上村、相知村、大村、鬼塚村、鏡村、唐津町、唐津村、北波多村、厳木村、久里村、佐志村、名護屋村、七山村、浜崎村、満島村、湊村、呼子村、切木村。
1924年(大正13年)1月1日 - 唐津町が満島村を編入する。

旧・唐津市の県内位置(1954年)
1931年(昭和6年)2月1日 - 唐津村を編入。翌年、唐津市として市制施行する。
1932年(昭和7年)1月1日 - 市制施行して唐津市となる。
1941年(昭和16年)11月3日 - 佐志町を編入。
1954年(昭和29年)11月1日 - 鏡村・久里村・鬼塚村・湊村を編入。
1955年(昭和30年) - 北波多村の一部を編入。
1958年(昭和33年)1月1日 - 切木村大良地区を編入。
2005年(平成17年)1月1日 - 唐津市と東松浦郡浜玉町・厳木町・相知町・北波多村・肥前町・鎮西町・呼子町が合併(新設合併)し、新たに唐津市となる。
2006年(平成18年)1月1日 - 七山村を編入。

主な事業
中心市街地活性化事業

大手口センタービル(Otte)
事業主体は地権者のうち3者(まいづる百貨店・昭和自動車・合名会社大手会館)の出資で設立した大手口開発。市役所東隣にあった旧まいづる百貨店(2002年閉鎖)と、隣接し通路で接続していた昭和自動車の旧バスターミナルビルなど併せて4ビルを解体して建設された。敷地面積2,400平方メートル、延べ床面積8,773平方メートル、鉄筋コンクリート造6階建。国と市・県が補助金を支出した。2010年12月に起工、2011年10月に完成。2012年現在では唐津大手口バスセンター(1階)、唐津市民交流プラザ(3階)、唐津市役所大手口別館(5・6階)のほか、FMからつの公開スタジオ、コンビニ・カフェ・書店などが入居している。

土地区画整理事業
唐津駅南土地区画整理事業
JR高架化にあわせて1980年から唐津駅南口側地区の土地区画整理を行う事業。駅前の30m幅都市計画道路(シンボルロード)の整備、駅前広場(4ha)の整備、町田大橋の架橋、河川改修、道路の拡幅、町田交差点から国道204号(唐津バイパス)への接続道路の敷設などが行われた。1994年には唐津市近代図書館が事業地内に開館した。2010年度から清算業務に入る。
新東唐津駅土地区画整理事業
JR新線開業に伴い鏡(現在の松南町)に移転した東唐津駅の周辺を1979年度から土地区画整理法に基づき開発する事業。「東唐津駅南地区」地区計画とも呼ばれる。駅前公園の整備や道路の整備改良拡幅、新たな住宅用地の造成などを主な事業内容とする。1991年(平成3年)には付近の虹の松原団地を含めた東唐津駅周辺を鏡から分割し松南町として新たに行政区を発足させ住居表示が施行された。それ以降、事業はなかなか進捗しなかったが、佐賀県立唐津東中学校・高等学校を2007年に事業地内に移転させることが決まったことにより大きく進捗し、2009年12月10日には換地処分を完了した。翌年1月21日に換地処分が公告され、その翌日新たに行政区として鏡新開が発足した。

経済・産業
就業人口
第一次産業:8,317人 13.4%(2005年)
第二次産業:14,501人 23.4%(2005年)
第三次産業:38,932人 62.8%(2005年)

第1次産業
果樹・米・野菜・肉用牛などの生産が主である。鏡や久里などの平野部には初代唐津藩主寺沢広高による河川改修事業の付随事業として開発された広大な水田が広がっており、現在も米の生産が主流だが、減反政策の影響で大豆などの豆類や大麦・小麦などの麦類の生産へシフトしてきている。浜玉地区には大規模な果樹園が広がり、ハウスみかんが特産である。
林業については、輸入材の影響や後継者不足により厳しい状況にあり、また水産業についても、唐津港水産基地の老朽化や人材不足により、唐津湾周辺での水揚げ量は年々減少しており、衰退の一途にある。

第2次産業
製造業と建設業が中心で、いずれも経営環境は厳しい。
主な工業集積地として、唐津鉄工団地(中原地区)、唐津石志工業団地(石志地区)、岸山工業団地(北波多岸山地区)が挙げられる。旧唐津町時代は栄町・船宮町のある外町埋立地が唐津の代表的な工業地帯であった。

第3次産業
イオン唐津ショッピングセンター
商業及び観光業が中心であるが、商業は近年西九州自動車道・二丈浜玉道路の整備や筑肥線の電化による福岡都市圏へのアクセス向上が原因となって、県外へのショッピング依存度が高まっており、市内商業の衰退を招いている。また、観光業についても同様の理由で日帰り観光の割合が主という傾向を示し、2010年初頭には大規模な旅館であった城内閣が営業を停止した。
1990年代から郊外に大型商業施設が進出し、この影響で唐津中央商店街をはじめとする市内各地の商店街では店舗の閉鎖や撤退が続き、空洞化が問題となった。また、大名小路地区にある地元資本のまいづる百貨店も2002年に閉鎖。その後付近に新たな店舗を設置し、スーパーマーケットへの完全な業態転換を図った(まいづる本店ショッピングプラザ)。

唐津市に本社を置く企業
まいづる百貨店物流センター
石井食品九州
唐津土建工業株式会社
笠原建設株式会社
昭和自動車株式会社
有限会社新日東工業
BSL/Bloom Strategy Laboratory
株式会社ブルーム
株式会社まいづる百貨店
株式会社高山質店(ガージュ)
株式会社前田建設
松浦通運株式会社
宮島醤油株式会社
村山ミルクプラント
株式会社ワイビーエム

唐津市に事業所を置く企業
第2次産業
石井食品九州工場
千寿製薬唐津工場
東和コーポレーション佐賀工場
日東工業唐津工場
丸大食品唐津工場
宮島醤油本社工場・妙見工場
リョーユーパン唐津工場
ヨコオ厳木工場
ワイビーエム本社工場・岸山工場
第3次産業
フリービット SiLK Hotlines
同社と唐津市が協定を結び、約1年の準備期間ののち2008年(平成20年)4月に正式稼働したコールセンター。

マスメディア
受信可能な放送局
※ケーブルテレビへの加入が前提である。
NHK佐賀放送局 <総合1ch><教育2ch>
サガテレビ(STS、フジテレビ系列)<3ch>
RKB毎日放送(RKB、TBS系列)<4ch>
福岡放送(FBS、日本テレビ系列)<5ch>
九州朝日放送(KBC、テレビ朝日系列)<6ch>
TVQ九州放送(TVQ、テレビ東京系列)<7ch>
テレビ西日本(TNC、フジテレビ系列)<8ch>

ケーブルテレビ
唐津・東松浦地区のケーブルテレビ普及率は全世帯に対し92.4%となっている(調査時期は不明)。ケーブルテレビに準ずる組織は以下の3局のほか、かつて複数の共同受信組合及び共聴施設が存在していたが、地上デジタル放送への完全移行に伴う公共事業により全ての共同受信組合が廃止され、唐津市有線テレビジョンに統合された。
なお、唐津市有線テレビジョンに加入した住民は、唐津ケーブルテレビジョンかネットフォーの独立チャンネルを受信することができる(地域によって受信可能なチャンネルは異なる)ほか、3局全てにおいて唐津市の行政放送を視聴することができる。
唐津市有線テレビジョン - 市内最大のケーブルテレビ事業者となる。
唐津ケーブルテレビジョン
ネットフォー

新聞社
唐津新聞社
1946年に唐津新聞(夕刊)を創刊したが、2008年1月1日に廃刊となった。かつて九州花火大会を主催するなど地域活動を積極的に行っていた[4]が、唐津新聞の廃刊で事業規模を大幅に縮小し、現在は新聞折り込み広告の企画・制作・発行が主な事業となっている。

コミュニティFM
FMからつ
2010年(平成22年)4月に開局。県内初のコミュニティ放送局である。

フリーペーパー
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発行 月刊 部数5,000冊
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発行 隔月(奇数月第1週)部数8,000冊 Webマガジン連動 クーポン付き




 

【壱岐の象徴・猿岩】

猿 岩

 

【全国の月讀神社、月讀宮の元宮】 

月 讀 神 社