天比登都柱(あめのひとつばしら) それは夢の島・壱岐
また神の世界と地上の世界を結ぶ一本柱の國、それが壱岐

どうぞ、食を文化をご堪能ください

佐賀県・佐賀市20161128

佐賀市役所



基本情報
所在地:〒840-8501 佐賀市栄町1番1号
電話:0952-24-3151




【Official site】


佐賀市
佐賀市(さがし)は、佐賀県の県庁所在地で、同県最大の人口を擁する市である。施行時特例市。
佐賀県の経済・行政の中心地。有明海から脊振山地までを縦断する広い市域を有し、市街地は佐賀平野の中心付近に位置する。秋には嘉瀬川河川敷を中心に佐賀インターナショナルバルーンフェスタが開催され、バルーン(熱気球)の街として賑わう。

地理
地勢
佐賀県の南東部に位置する。市域は南北に長く、南側は有明海に面し、南東部は筑後川を挟んで福岡県大川市・柳川市に、北東部でも脊振山地を境に福岡県福岡市(早良区)・糸島市に接している。
長崎自動車道付近を境にして、市域の北半分は、北部九州を東西に貫く筑紫山地に属する脊振山地であり、山がちで起伏が大きい。市域の南半分は、有明海北岸に広がる筑紫平野の西部に属する佐賀平野であり、起伏がほとんどない低平な地域で、対照的である。市街地は佐賀平野の中心付近に位置している。
2005年(平成17年)・2007年(平成19年)の周辺町村との合併によって市域は104km2から431km2へと4倍に拡大し、県内では唐津市に次ぐ2番目に大きな面積を有する自治体となった。
東端:東経130度23分
西端:東経130度8分
北端:北緯33度29分
南端:北緯33度8分
隣接している自治体
佐賀県
唐津市(厳木町、七山村)
小城市(小城町、三日月町、芦刈町)
神埼市 - 神埼市との境界のうち、腰巻山付近から帯隈山付近までの直線距離約2kmは境界未定部分である。
多久市
福岡県
福岡市(早良区)
糸島市 (前原市)
柳川市 (旧柳川市)
大川市
人口約24万人を有する佐賀県最大の都市だが、九州7県の県庁所在地では最少であり、県庁所在地以外を含めると佐世保市に次いで九州で10番目に人口が多い市である。10%通勤圏人口では約41万人(2005年)を有する佐賀都市圏の中心市で、久留米都市圏の約51万人より少ないが佐世保都市圏の約31万人を上回る。
福岡市とは中心部相互間で約53kmと直線距離は近いが、山地を隔てているため生活圏や雇用圏は分かれていて、鳥栖市のようなベッドタウン化はみられない。江戸時代より佐賀藩の城下町として発達してきており、鳥栖市・久留米市が交通拠点・工業地域、唐津市が港湾・観光都市であるのに対し、佐賀市は農業地帯の中心に位置する地方都市や佐賀県中部・東部の商業都市としての面が強い。2000年代以降は観光都市としてPRする動きも活発であり、観光資源の発掘が盛んである。

佐賀平野地域
平野部では水辺と田園地帯が独特の自然景観を見せる。市域にあたる佐賀平野中部は、丘陵がほとんど存在せず、河川堤防を除くと全般的に海抜が低い。また中小河川や水路(クリーク)が発達していて、農業用水・生活用水や水運を目的としていたことから、市街部・田園部の別なく水路が網羅されていて、その恩恵を享受していた。一方で、脊振山地に源を発し市域西部を流れる嘉瀬川と、九州山地に源を発する九州最大の筑後川に挟まれているため、昔から洪水の頻発地帯であり、灌漑や治水によって農地や住民の生活が守られてきた側面もある。
市街地北部の国道34号付近でも海抜5mであり、有明海沿岸堤防の計画高水位より低い[2]上、起伏が少ないため水はけが非常に悪い地域であった。一度堤防が決壊して町や農地が水浸しになると何週間も引かないことがある一方、水争いでの村同士の対立も深刻であった。これを一変させたのが、江戸時代に入ってから成富兵庫茂安らの協力で佐賀藩が行った治水事業である。平野全体で治水や灌漑を一体的に考える当時としては画期的な手法によって、洪水被害が軽減され水争いが減少した。また明治以降、干満差が大きい有明海を取り囲む高い堤防と水位調整、さらに蛇行の多い水路を直線的に改良して排水効率を向上する水路整備や排水ポンプ場整備により、現在の洪水被害は減少している。
江戸初期に設置された石井樋により嘉瀬川から分流した多布施川は、市街地北部を縦断して水路に分化しながら佐賀城内に至り、古くより生活用水として用いられていた。現在も多布施川から旧佐賀市の水道水が取水されている。城内通過後の多布施川は佐賀江川につながり、市街地南部を再び縦断して今度は農業用水に用いられ有明海に至る。このほか巨勢川、福所江川、八田江川などが、いずれも北から南に向かって流れている。諸富町南東では筑後川に接し、中州である大中島、筑後川と早津江川に挟まれた河口州である大詫間(島の南半分が佐賀市、北半分が大川市)は市域に含まれる。
起伏が少ない佐賀平野は水田に適しており、古代より順次開墾されていって稲作地帯となった。また佐賀平野は筑後川などの土砂運搬により急速な自然陸化が進む地域で、海岸線は年々南下してきた。これに加え、江戸時代以降本格化した干拓によって、人工的に土地を造成して農地を拡大してきた。東与賀町や川副町の大部分、本庄町・西与賀町・久保田町の南端はほとんどが干拓地である。
佐賀市街は、市内平野部のちょうど真ん中付近に位置している。佐嘉と呼ばれていたこの町は、戦国時代まで佐賀平野の1農村に過ぎなかった。室町時代中期に村中城および水ケ江城を構えて拠点としていた龍造寺氏が戦国時代後期に勢力を伸ばしたことが転機となり、町が発展した。さらに、後継の鍋島氏は2つの城を慶長年間(1596年 - 1615年)に大改修し佐賀城を築城するとともに、城周辺を再整備した。その際、条里制による直線的な道路・水路を生かして碁盤の目のような整った街路区画を行っており、現在でもその名残を見ることができる。これ以降佐嘉は肥前佐賀藩の城下町として、また長崎街道の宿場町としても栄えた。中世以降「佐賀」の表記も用いられるようになり、明治維新以降は正式に「佐賀」と改められた。そして、明治初期の廃藩置県後に県庁所在地となったことで、近代以降の佐賀県の行政の中心地としての地位を確立する。
現在の佐賀市街は、佐賀駅を中心としてビル街・商業街があり、それを取り囲むように低層住宅地が位置し、住宅地郊外にショッピングセンター型の大型商業地が点在する。宅地化はやや道路に沿いながらもほぼ同心円状に進んだ。中心市街地では佐賀駅移転・工場の移転再整備・基幹道路整備という一連の流れにより再開発が進んだ地域もある。いわゆる高層建築物はほとんどなく、もともとの地形とも相まって、比較的平坦な街並みである。
地価高騰により住宅地が郊外に集積したことで、高齢化とドーナツ化現象が中心市街地の衰退を招いていたが、1990年代 - 2000年代には地価下落による再開発ラッシュの影響を受け、中心市街地に中層マンションが集積したことで、ドーナツ化は緩やかになっている。しかし、同時期に郊外型商業地の集積も進んだため、佐賀駅周辺や城内地区などの商店街型の小売業は長期的に衰退してきている。
一方の郊外部では、農地に点在していた住宅の間に新しい戸建住宅や団地が造成されるなどして、開発が順調に進められて市街地が拡大していった。通勤の軸が鉄道ではなく自動車(道路)であるため、主要道路の沿線に住宅地が形成されている。もともとの農地が区画整理されていたこと、1970年代から早期に環状道路が整備されたこと、郊外化に拍車をかける市街の地価高騰がそれほど顕著でなかったことから、スプロール現象は起こっていない。

脊振山地地域
脊振山地南側山麓のうち市域部分は、川久保断層などの断層系の影響で比較的急な斜面になっており、ゆるやかな丘陵地帯である小城市や神埼市方面とは異なっている。市西端(佐賀県中央部)付近に位置する1046m(市内最高点)の天山、福岡県境に連なる900m級の雷山や羽金山などが標高が高く、両地点の間には山々が連なり、その間を山間部では川上川とも呼ばれる嘉瀬川水系の河川が縫うように流れ、市北部をカーブを描きながら南下している。比較的緩やかな山合いや川岸の平地に、農地に囲まれた農村や、里山に接した山村が点在している。
川上川最上流の三瀬村西部には北山ダム、また同上流の富士町中部に佐賀県最大規模の嘉瀬川ダムがある。また、川上川水系から離れた大和町の一部や金立町・久保泉町の山間部では、少雨時に水不足になりやすいため、多数のため池が点在する。
羽金山には日本標準時標準電波 JJYを送信するはがね山標準電波送信所がある。JJY送信所は日本に2か所あり、もう1つは福島県田村市・川内村 おおたかどや山。
山:天山 (1046m)、彦岳 (845m)、白石山 (794m)、雷山 (955m)、羽金山 (900m)、亀岳 (740m)、権現山 (586m)、金立山(502m)

歴史
沿革

佐賀城鯱の門
縄文時代から弥生時代にかけて、市南部の平野地域はまだ海底であったが、度重なる海進・海退と河川による土砂運搬により、今ある佐賀平野が作られる。また有明海の干拓によって平野面積がさらに拡大した。
律令制下では肥前国に属し、現在の佐賀市大和町に肥前国国府が置かれた。戦国時代には龍造寺氏が支配。龍造寺氏が絶えたのちの1608年(慶長13年)、龍造寺氏の重臣であった鍋島直茂が藩主の座に就き、以後は廃藩置県まで鍋島氏が統治する佐賀藩の本拠地となり、佐賀城が築城された。水運と農業中心の小さな町だった現在の佐賀市街付近は、佐賀城築城後に佐賀藩本藩の城下町として発展し、商工業が大きく発達した。
佐賀藩は別名を肥前藩ともいい、明治維新において、版籍奉還を上奏した「薩長土肥」の1つとなった。また、長崎に近かったため西洋の科学技術を積極的に導入し、幕末には精錬方(藩立の科学技術研究所)、反射炉、三重津海軍所(造船所・海軍修練所)などが設置され、鉄製大砲や蒸気船、指字電信機(エーセルテレカラフ)、暗箱カメラなどが外国の技術者に頼ることなく独力で製作され、我が国の科学技術近代化に大きく貢献した。
明治時代は佐賀県の併廃とともに佐賀県、伊万里県、佐賀県、三潴県、長崎県、と変わり、最後には佐賀県が分離されてその県域に入った。1889年の市制施行時の市域は現在の市中心部の一部だったが、昭和の大合併により旧佐賀市、平成の大合併により現在の佐賀市の市域となった。これにより市域は福岡県境へと拡大した。人口規模は特例市の要件(20万人)を満たし、2014年4月1日付けで移行された。
佐賀市は、太平洋戦争において米軍による爆撃優先順位が180都市中101番目と決して低くなかったが、幸いにも誤爆により中心部の被害は免れ城下町の古い街並みがそのまま残った。しかし、その後目立った街並みの保存運動等が起こることが無く無秩序な建て替えなどでその多くが失われ、佐賀市歴史民俗館建物群がある旧市街東部の長崎街道沿いなどで江戸-大正にかけての町屋建築や明治 - 大正にかけての洋風建築の街並みを見ることができるのみであり、その他の旧城下市街では纏まった古い街並みは少なく古い町屋や洋館が散在する状況にある。ただし、江戸時代からの町割りや水路は良好に残されており、江戸時代の石積護岸の水路や石橋が今も現役で使用されている

年表
佐賀の乱の忠魂碑
佐賀市は1970年代以降開発が急速に進められて都市らしくなっていったが、それまでは都心の一部を除き農村と変わらない風景だった。
紀元前5000年頃(縄文時代前期) : 金立町千布の大規模貝塚群である東名遺跡が形成される。縄文海進のピーク期で、同時期の貝塚としては筑紫平野で唯一、西日本でも最大級の規模の貝塚。
4世紀末 - 5世紀前半(古墳時代) : 金立山南麓の前方後円墳である銚子塚古墳が築造される。
5世紀末 : 金立山南麓の円墳である西隈古墳が築造される。
6世紀 - 7世紀頃 : 久保泉町川久保に帯隈山神籠石の原型である山城が築かれたと推定される。
8世紀前半 : 大和町久池井の肥前国庁跡が成立(推定)。以後、9世紀末頃まで機能していたと考えられる。
12世紀 : 大和町春日の山城である春日城が成立。
12世紀 - 16世紀(鎌倉時代・室町時代) : この時期平野部では、小地頭・家人・有力百姓らが新田開墾を進めながら、自らの領地に環濠の発達した城郭を築いて割拠していた。この頃の代表的遺構に、久保泉町の古村周辺遺跡がある。やがて戦国時代に入ると水ケ江城を拠点としていた龍造寺氏が戦国大名として北部九州の広範囲にまで勢力を拡大するが、大友氏に押されて肥前東部の支配に収まる。17世紀初頭には領家が鍋島氏に継承され、佐賀藩領主となる。
1602年(慶長7年) : 佐賀城本丸の改修が始まる。
1611年(慶長16年) : 改修が終了し、佐賀城が完成する。
元和年間(1615年 - 1624年頃) : 成富茂安(成富兵庫茂安)によって石井樋が建設され、多布施川を通した嘉瀬川から佐賀城下への取水および洪水調節が図られる。
1726年(享保11年) : 大火により本丸が焼失。政務の中心を二の丸へ移す。
1835年(天保6年) : 大火により二の丸が焼失。政務の中心を再び本丸へ移す。
17世紀 - 19世紀(江戸時代・明治時代前期) : 佐賀藩は当初の厳しい財政を新田開発や倹約により立て直し、長崎街道を有しまた長崎警備を行っていたという地の利から先進的科学技術の導入を進めたことで、幕末には高い軍事力・技術力を有するに至った。倒幕運動への参加は戊辰戦争からと後発だったが、以降明治政府へ多くの人材を輩出する。
1870年(明治3年) : 佐賀藩の士族を中心とした佐賀移民団286名が組織され、北海道釧路郡の開拓にあたる。
1871年(明治4年)9月4日 : 佐賀県(当時)を伊万里県と改称し、県庁が伊万里に移される。
1872年(明治5年)5月29日 : 伊万里にあった県庁が佐賀に移され、伊万里県から佐賀県(当時)に再改称する。
1874年(明治7年)2月1日 - 3月1日 : 士族反乱の嚆矢、佐賀の乱がおこる。
1889年(明治22年)4月1日:市制施行により現在の佐賀市中心部を市域とする佐賀市が発足。
1891年(明治24年)8月20日 : 九州鉄道佐賀線(現在の長崎本線)鳥栖 - 佐賀間が開通。
20世紀 : 明治の佐賀は、農業および繊維業中心の軽工業を軸とした産業都市、また県庁が所在する政治的拠点として、開発が進められ人口が増加していくとともに、地方都市として成長する。
1933年(昭和8年)12月18日 : 佐賀玉屋が開業。
1935年(昭和10年)5月25日 : 佐賀線佐賀 - 筑後大川間が延伸開業。
1945年(昭和20年)8月5日夜半 : アメリカ軍による佐賀市の空襲。佐賀県下初の焼夷弾爆撃で63機が2196発、439トン投下。
第一次世界大戦後は農業から商工業へ主要産業がシフトするが、重工業や機械工業などの成長は伸び悩む。九州の他都市と比べて相対的に緩やかではあるが、佐賀都市圏の中心都市として開発が進められ、1990年代まで人口は増加を続ける。
1949年(昭和24年) : 24水。豪雨により洪水が発生、死者数十名、浸水2万戸以上という被害を出した。
1953年(昭和28年)6月 : 28水。豪雨により佐賀平野のほとんどの河川の堤防が決壊し、死者・行方不明者62人、総額249億円(当時の金額、現在の1300億円相当)の被害を出した。現市域南部の広範囲が浸水し、東川副村(当時)の干拓堤防を破壊して強制排水する事態となった。
1955年(昭和30年)9月 : 筑後川を跨ぐ2つの橋、諸富町と同町大中島を結ぶ諸富橋、同島と福岡県大川市を結ぶ大川橋(ともに国道208号)がそれぞれ開通。それまで鉄道と並んで日常的に利用されていた渡船が廃止される。
1957年(昭和32年)3月 : 富士・三瀬に北山ダムが完成。
1963年(昭和38年)3月12日 : 佐賀県体育館(後の市村記念体育館)が落成。市村清による寄贈。
1963年(昭和38年) : 佐賀高等学校が分離、佐賀東・佐賀西・佐賀北の3高等学校が設立。
1971年(昭和46年)12月26日 : 市中心部の渋滞緩和のため整備されていた環状西通りおよび南部バイパス(ともに国道208号)が開通。
1976年(昭和51年)2月19日 : 佐賀駅が高架化・100m北に移転し、新しい駅舎での営業を開始する。
1976年(昭和51年)10月 : 現在の佐賀大学医学部にあたる、佐賀医科大学設立(1978年開校)。これ以降、キャンパスが置かれた鍋島地区で住宅開発が進む。
1976年(昭和51年)10月 - 11月 : 佐賀県総合運動場を主会場として佐賀国民体育大会(若楠国体)が開催される。
1980年(昭和55年)11月24日 : 現在の佐賀インターナショナルバルーンフェスタにあたる『バルーンフェスタイン九州』が佐賀で初開催。
1985年(昭和60年)3月28日 : 長崎自動車道鳥栖IC-佐賀大和IC間が開通。
1986年(昭和61年) : 三瀬峠のバイパスとして三瀬トンネルが開通。
1987年(昭和62年)3月28日 : 佐賀線が廃止。交通手段はバス等に転換された。
1989年(平成元年) : 市制施行百周年、佐賀市文化会館の開館、アジア初の熱気球世界選手権開催。
1991年(平成3年) : ごみの6分別収集開始。
1996年(平成8年)8月8日 : 大和紡績佐賀工場跡地再開発の一環として佐賀市立図書館開館。(旧佐賀市での市民の図書館利用率が日本一を記録した)
1998年(平成10年)7月28日 : 川副町に佐賀空港が開港。
2003年(平成15年)4月1日 : 市営都市ガス事業が民間会社佐賀ガスに譲渡。
2004年(平成16年)6月27日 : 市南部で竜巻が発生し、数百件の家に被害。
2005年(平成17年):城内の佐賀市水道局跡地の利用を巡り、佐賀城本丸歴史館整備を機に高まった佐賀城公園景観保存運動により、市から建設会社への売却が問題となる。結果的に県が買い戻す(実質負担の半分以上は市)こととなった[6]。その後2007年に県が「佐賀城下再生百年構想」策定、東堀の復元などの公園整備事業が進んでいる。
2014年(平成26年)4月1日 : 特例市に移行。

政治・行政
市政
市政の方針として、第一次総合計画では、“人と自然が織りなす「やさしさと活力にあふれるまち さが」”を挙げている。
2000年代に入って木下敏之前市長のリーダーシップにより市営都市ガス事業の民間譲渡(佐賀ガスへの移行)が市職員組合の強い抵抗を押し切る形で実行されたほか、市窓口の一新、市施設や組織の見直し、NAS電池やIP電話導入による経費削減、サムスングループ系列のサムスンSDSと共同開発した新しい情報処理システム導入などの経費削減策などの大幅改革が行われた。この木下市政の急激な改革に対して批判の声が上がり、また市職員組合も反旗を翻し、2005年(平成17年)9月の市長選挙で秀島敏行(市水道局長などを歴任した市職員OB)が自民党と社民党[7]の推薦という異例の形を受けて当選。成果を挙げている財政立て直しを評価する声とが交錯した。
中心商店街および、佐賀駅前から城内にかけての中心市街地の活性化が市政の大きな課題として挙げられる。幹線道路沿いの大規模な郊外型商業地(「経済・産業」の節参照)が集客を伸ばす一方、市中心市街地の人通りはバブル崩壊以降加速的に減少の一途を辿っている。商店街で次々と店舗の閉鎖や撤退が進行していわゆるシャッター通りとなり、空洞化が問題となっている。巻き返しを狙って市が出資した商業施設と集合住宅の複合施設エスプラッツの運営は当初より厳しく、集客が伸び悩み、テナントの入れ替わりが多く現在も迷走している。
また、市町村合併により市域となった三瀬・富士・大和などの山間部では人口流出や高齢化が進行していて、過疎地域の振興も課題として挙げられる。
市町村合併に関しては、2005年(平成17年)10月に合併しなかった佐賀郡南部3町(川副町、東与賀町、久保田町)と、2007年(平成19年)10月1日に合併した。

経済・産業
郊外では広い平野と水利を生かした穀類を軸にした農業、有明海の性質に適した海苔養殖を軸にした漁業が地域産業として維持されてきた。一方の工業では伝統的な背景などから、重工業よりも軽工業の方が発達しているという特徴がある。
もともと有数の稲作地帯であった広い農地は、農業を取り巻く環境の変化に応じて野菜畑などに転用することで維持されてきた。工業に関しては地勢上、海(有明海)には面しているが、遠浅で大型船が航行できない海域であるため、重工業があまり発達してこなかった。また、20世紀前半に石炭を産出して栄えた県西部とは対照的に炭鉱が無かったため、炭鉱業やその後継としての工業が発達しなかった。
一方、食品産業が根付いていた経緯などから食品工業や繊維産業が発達してきた経緯がある。食品産業は依然として強いが、1970年代頃より繊維産業は主軸から外れた。しかし1990年代以降、北部九州に自動車・自動車部品産業が集積してきたことに影響されて、新たに自動車部品産業が伸びてきている。
県庁所在地であり就業者数からみてもサービス業の占める比重は大きいが、商業において出荷額が他の同規模都市に比べてとりわけ多いわけでもない。現在、売場面積5万m2クラスの大型郊外型商業施設が3施設競合状態にあり、供給に対する需要のアンバランスが見られるが、土日や祝日には県西南部からも集客をしている。
本店・主要営業所を置く企業は県内都市では随一だが、周辺各県に比べると必ずしも多くない。地方の県庁所在地によくみられる、支店経済都市的な傾向もある。
産業別人口では第3次産業が7割を超えるが、九州7県の中では最も低く全都道府県中でも中位にある。第2次産業の割合が少ない一方、第1次産業の割合が比較的高い。(2005年10月1日、国勢調査のデータ[9])
第1次産業:8,756人(7.6%)
第2次産業:21,968人(19.2%)
第3次産業:83,092人(72.4%)
分類不能の産業:895人(0.8%)

第1次産業:9,415(8.0%) - 2,798人(3.5%)
第2次産業:25,585(21.8%) - 16,022人(19.2%)
第3次産業:82,114(69.9%) - 60,655人(76.1%)
分類不能の産業:362(0.3%) - 275人(0.3%)
第1次産業
県庁所在地だが郊外は田畑が広がっていて、耕地面積は11,000haと県内最大で農業も盛んである。耕地の大部分を占める平野部では、表作として夏に米を生産、裏作として秋から春にかけて大麦(特に二条大麦のシェアが高い)、小麦などの麦類、また大豆などの豆類を生産する二毛作が定着しており耕地利用率は140%前後で推移している。穀倉地帯と言われるように穀類の生産が総じて多いのが特徴である。
近郊農業や大消費地向けとして野菜や花卉類の生産も一定の規模がある。果物類では、さがほのかブランドでのイチゴ生産量が多いほか、山の斜面でのみかんは露地栽培も盛んでハウス栽培が多い県西部とは対照的である。畜産では、肉牛や豚、鶏などの飼育も山間部を中心に行われている。著名なものとして、ブランド牛肉である佐賀牛、地鶏のみつせ鶏などが挙げられる。山間部の林業は後継者不足により衰退が著しい。
平成の大合併前の佐賀市域は海に面する地域が狭かったが、合併した久保田町・東与賀町・川副町の有明海沿岸では海苔の養殖が非常に盛んである。関連する海苔加工などの製造業も含めて地域の主産業となっており、市町村別の海苔生産額は全国1位である。サルボウ(モガイ)、ウミタケ、ワラスボ、ムツゴロウといった有明海特有の海産物も獲れ、郷土の味としても親しまれている。
市内の漁港
寺井津漁港
広江漁港
佐嘉漁港
福所江漁港
戸ヶ里漁港
戸ヶ里地区
早津江地区
大詫間地区
三軒屋地区

第2次産業
現在出荷額が最も多いのは食品工業を中心とする軽工業である。輸送の利便性から明治時代より工場は佐賀駅周辺に集中していたが、戦後から1970年代にかけて大和紡績佐賀工場の閉鎖を筆頭として、市街地開発などによる工場の撤退・移転が相次いだ。代わって、用地開発のコストが小さく交通の便のよい長崎自動車道や国道周辺に工業団地が造成され、誘致された工場群が工業の中心となった。
江崎グリコグループの九州グリコ・グリコ乳業は創業者江崎利一が佐賀県出身である関係から地場企業であり、現在も市街地に工場を構えている。また同様に佐賀駅近くに拠点を有する戸上電機製作所などもあり、産業別では電気機械器具の出荷額も比較的多い。
また、諸富町の味の素九州工場も古くから立地している主力の地場企業である。諸富町は対岸の福岡県大川市と並んでたんすを主とする家具産業も盛んで、多くの中小企業が集まっており地場産業となっている。また久保田町には1923年操業開始の王子マテリア佐賀工場が立地している。
第2次産業従事者数は緩やかに減少しつつあるものの、継続的な雇用維持や産業育成のため、市は進行中の久保泉工業団地の誘致、従来からの食品産業の振興や、北部九州に集積されつつある自動車産業の関連産業の誘致などを推進している。
主な工場集積地
久保泉工業団地 - 久保泉町。南東側で第2分譲が進行中。
佐賀大和工業団地(佐賀工場団地) - 高木瀬町
鍋島商工団地 - 鍋島町
富士町南部工業団地 - 富士町上熊川
諸富家具工業団地 - 諸富町徳富

第3次産業
県中部や東部の中心都市として多くの店が集まり、サービス業、卸売業、小売業、飲食店などが盛ん。1990年代から郊外の幹線道路沿いに大型商業施設が続々と整備され、集客を伸ばしている。一方で、市中心部の商店街では空洞化が深刻となっている。
中心市街地活性化に関しては、駐車場不足、目玉となる商業施設の不在などが挙げられている。また、乗用車やバスなどが市民の主な交通手段であるにもかかわらず、駐車場が不足していることも挙げられる。一方で広大な売場面積を有する郊外の大型商業施設は車によるアクセスの良さから賑わいを見せ、幹線道路沿いでは商業集積が進んでいる。
主な商業地
中心商店街 - 佐賀駅から県庁周辺の市中心部の商店街。銀天通り、片田江、唐人町、呉服元町、新道、水ケ江、県庁通り、白山、元町など。佐賀玉屋・西友佐賀店などが核店舗だが、広範囲に多業種の店舗が散在する。
大和町南部 - ジャスコ・ベスト電器佐賀大和店・ホームワイド・イオンシネマ等を擁する大型商業施設イオンモール佐賀大和を中心に集積。国道263号沿いで長崎道ICにも近い。
兵庫町(夢咲コスモスタウン) - ゆめタウン・ベスト電器佐賀本店・ニトリ・トイザらス等を擁する大型商業施設ゆめタウン佐賀を中心に、周辺にはエディオン、GOLF5、SPORTS DEPO等が集積。国道34号・環状東通り沿い。
巨勢町 - Mr.Max・109シネマズ等を擁する大型商業施設モラージュ佐賀を中心に集積。国道264号・環状東通り沿い。
このほか、環状線、それ以外の国道34号、国道263号、国道208号などの幹線道路沿線に、大型のロードサイド店が集まる場所や小規模商店街がある。
佐賀市に本社を置く主な企業[編集]
詳細はCategory:佐賀市の企業を参照
金融業
佐賀銀行
佐賀共栄銀行
建設・エネルギー業
佐賀ガス
中野建設 - 佐賀県で最大手のゼネコン。
松尾建設 - 九州最大手のゼネコン。
佐電工 - 電気設備工事のサブコン。
製造業
戸上電機製作所 - 電力機器・探査機メーカー。
リコー計器、佐賀リコー - リコー系列
九検
ソクト
フルテック - フルタ電機系列
理研農産化工 - 精油・製粉製品メーカー。
村岡屋
情報通信業・メディア
佐賀新聞
サガテレビ
エフエム佐賀
ソアー
オプティム
佐賀電算センター
小売業
佐賀玉屋 - 佐賀の老舗デパート(百貨店)
ダイレックス - 地場ディスカウントストアチェーン。
スーパーモリナガ - 地場スーパーマーケットチェーン。
鈴花
ギャザー

マスメディア
テレビ
サガテレビ(佐賀親局44ch、リモコンキーID3、フジテレビ系列)
NHK佐賀放送局(総合33ch、総合ID1、教育(Eテレ)25ch、教育(Eテレ)ID2)
他のチャンネルは隣県の放送を受信している。詳細は佐賀県#テレビ放送局を参照。他の中継局およびchについては佐賀市内デジタルテレビ中継局を参照。
ケーブルテレビ
佐賀シティビジョン(ぶんぶんテレビ)(旧佐賀市・久保田)
ラジオ
NHK佐賀放送局(ラジオ第一963kHz、FM81.6MHz)
NBCラジオ佐賀(1458kHz、JRN・NRN系列) - 長崎放送の中継局だが、独自番組も放送する。
エフエム佐賀(77.9MHz、JFN系列)
えびすFM(89.6MHz、コミュニティFM)
NHKラジオ第二については、平野部や山間部南部ではNHK熊本放送局(873kHz)山間部北部ではNHK福岡放送局(1017kHz)のカバーエリアとなっている。
出版社
佐賀新聞 - 地元紙。
西日本情報センター
タウン情報さが
フリーペーパー
月刊ぷらざ佐賀(1987年創刊、97,000部) - 全国ぷらざ協議会幹事会社。
モテモテさが(92,000部) - 佐賀新聞系列。
WASABI(80,000部)
カイラン(80,000部)
とっとっとSAGA

特産品
丸ぼうろ(菓子) - 南蛮渡来菓子
白玉饅頭 (菓子) - 與止日女神社の門前菓子
あめがた (菓子)
さが錦(菓子)
肥前ビードロ - 精錬方で江戸末期から実験用ガラス器具を製造したことに始まり、食器やランプ用の生産を経て、工芸品として継承されている。
鍋島緞通 - 佐賀藩御用品として発達した木綿絨毯。
名尾和紙 - 大和町名尾に伝わる伝統的製法の和紙。
佐賀海苔 - 一般用のほか、贈答用に特化した高級品も多く生産。最高級品を「佐賀海苔 有明海一番」の名で販売している。

教育
大学・短期大学
国立
佐賀大学
私立
西九州大学短期大学部
佐賀女子短期大学
放送大学佐賀学習センター(特殊な学校法人)
高等学校
県立高等学校
佐賀県立佐賀西高等学校
佐賀県立佐賀東高等学校
佐賀県立佐賀北高等学校
佐賀県立致遠館高等学校(県立中高一貫教育校・併設型)
佐賀県立佐賀商業高等学校
佐賀県立佐賀工業高等学校
佐賀県立高志館高等学校
私立高等学校
弘学館高等学校(私立中高一貫教育校)
クラーク記念国際高等学校佐賀キャンパス
佐賀学園高等学校
佐賀清和高等学校(私立中高一貫教育校)
龍谷高等学校
北陵高等学校
佐賀女子短期大学付属佐賀女子高等学校
※佐賀市では、「佐賀市奨学金」という高校生を対象とした給付型奨学金制度がある。
中学校
佐賀市立中学校
佐賀県中学校一覧#佐賀市を参照
佐賀県立中学校
佐賀県立致遠館中学校(県立中高一貫教育校・併設型)
私立中学校
弘学館中学校(私立中高一貫教育校)
成穎中学校
佐賀清和中学校(私立中高一貫教育校)
龍谷中学校
国立大学附属中学校
佐賀大学文化教育学部附属中学校
小学校
佐賀市立小学校
佐賀県小学校一覧#佐賀市を参照
国立大学附属小学校
佐賀大学文化教育学部附属小学校
幼稚園
市立幼稚園
佐賀市立本庄幼稚園
私立幼稚園
佐賀県幼稚園一覧#私立幼稚園を参照。
国立大学附属幼稚園
佐賀大学文化教育学部附属幼稚園
保育所
佐賀県保育所一覧を参照。
特別支援学校
佐賀県立
佐賀県立金立養護学校
佐賀県立大和養護学校
佐賀県立ろう学校
佐賀県立盲学校
国立大学附属
佐賀大学文化教育学部附属特別支援学校
各種学校・専修学校
九州国際情報ビジネス専門学校
九州国際高等学園
佐賀インテリジェントビジネス・カレッジ
佐賀工業専門学校
佐賀コンピュータ専門学校
佐賀市医師会立看護専門学校
佐賀歯科衛生専門学校
西九州大学佐賀調理製菓専門学校
佐賀日中学院
佐賀理容美容専門学校(アイ・ビービューティカレッジ)
専門学校公務員ゼミナール
寺元ドレメデザイン専門学校
西九州大学福祉医療専門学校
緑ドレスメーカー服飾専門学校
学校教育以外の施設
農業者研修教育施設
佐賀県農業大学校
自動車教習所
佐賀城北自動車学校
南佐賀自動車学校
若楠自動車学校
川久保自動車教習所
ふじ自動車学校

交通
古くから長崎街道やそれに沿う道、運河が特に発達していた。明治時代に鉄道が開通した後道路が発達し始めたものの、市街地だけだった。戦後、市街地以外で土地整理が行われたのに伴い大きな道路が発達し、国体が開催された1970年代後半ころにその動きが加速した。その後、交通量の増加により城下町特有の街路の狭さも相俟って中心市街地の交通渋滞が深刻化し、これを緩和するために市街地を取り囲む形でほぼ全線4車線の環状道路が整備され、また1985年(昭和60年)には高速道路が開通し、今に至っている。
古くからの市街地(旧城下町エリア)は長崎街道防衛ために整備された名残で短く曲がり角の多い道になっているが、環状道路などの周辺バイパス道がよく整備されていることにより、通過目的のみの大型貨物車や乗用車の中心部への流入が極端に少なく、朝夕の通勤ラッシュ時間帯を除いて中心部の交通渋滞はそれほど問題とはなっていない。そのほかの周辺地域ではほとんどが田を埋め立てて造成された道路なので直線道路が圧倒的に多く、ドライバーにとっては走りやすい道路が多い。
近年では、県東部の鳥栖市周辺が交通の中心であり、久留米・鳥栖と長崎・佐世保を結ぶ道路・鉄道の通過点的な性格が強く、拠点としては伸び悩んでいる。熊本・大牟田方面とを結んでいた国鉄佐賀線の廃線はこれに拍車をかけた。ただ、道路に関してはこの方面とを結ぶ有明海沿岸道路が整備されつつあり、唐津方面とを結ぶ西九州道などの整備も進めば現状より改善される可能性がある。
周辺地域へのアクセス
鳥栖市など県東部、久留米市方面 : 長崎本線、34号・264号・長崎道
鹿島市など県南西部 : 長崎本線、34号・207号・444号
武雄市、伊万里市など県西部 : 長崎本線⇒佐世保線・松浦鉄道西九州線、国道34号・498号・長崎道
多久市など中部、唐津市など北西部 : 長崎本線⇒唐津線、203号・323号・長崎道
福岡市方面 : 長崎本線⇒鹿児島本線、263号・385号、長崎道・九州道
長崎市方面 : 長崎本線、34号・長崎道
佐世保市方面:長崎本線・佐世保線、34号・35号・長崎道⇒西九州道
大牟田市・熊本市方面 : 208号・有明沿岸道
東京・大阪方面 : 長崎本線 - 鹿児島本線 - 山陽本線(山陽新幹線)・東海道本線(東海道新幹線)、佐賀空港、福岡市方面⇒福岡空港

空港
佐賀空港(愛称 : 九州佐賀国際空港)
国内線
全日本空輸:東京(羽田)
春秋航空日本:東京(成田)
国際線
春秋航空:上海(浦東)
ティーウェイ航空:ソウル(仁川)
川副町(佐賀市最南端)に所在。アクセスは、市中心部と佐賀空港の間を路線バスが結んでいるほか、リムジンタクシーも運行している。
佐賀空港開港以前は福岡空港が最寄り空港として利用されていて、便数が多く運行時間が多様であることから、現在でも比較的利用される。佐賀市内と福岡空港を結ぶ高速バスが、現在も運行している。

鉄道

佐賀駅南口
九州旅客鉄道(JR九州)
長崎本線
伊賀屋駅 - 佐賀駅(市内で最も利用者数が多い中心駅) - 鍋島駅 - バルーンさが駅(佐賀インターナショナルバルーンフェスタ期間中のみ開設) - 久保田駅
唐津線
久保田駅

道路
高速道路 : 長崎自動車道 - 上りは鳥栖JCT経由で福岡・大分・熊本方面、下りは長崎・佐世保方面と接続する。
インターチェンジ:佐賀大和インターチェンジ - 大和町久池井、国道263号沿い。
その他の施設:金立サービスエリア
地域高規格道路
有明海沿岸道路 - 福岡県大牟田市と鹿島市を結ぶ計画路線。
インターチェンジ:諸富IC - 川副IC - 空港東IC - 空港西IC - 東与賀IC - 佐賀JCT(この間は未開通) - 嘉瀬南IC - 久保田IC-芦刈インターチェンジ│芦刈IC-芦刈南インターチェンジ│芦刈南IC(芦刈ICと芦刈南ICは小城市)
佐賀唐津道路 - 佐賀市と唐津市を結ぶ計画路線。
インターチェンジ:佐賀JCT
一般国道
国道34号(北部バイパス)
国道35号
国道207号(市街地部分は通称「貫通道路」)
国道208号(南部バイパス、西部環状線(環状西通り))
国道263号
有料区間:三瀬トンネル
道の駅大和
国道264号(貫通道路、堀江通り)
国道323号
国道385号
国道444号
県道(主要地方道)
福岡県道・佐賀県道12号前原富士線
福岡県道・佐賀県道18号大牟田川副線
佐賀県道・福岡県道20号佐賀大川線
佐賀県道29号佐賀停車場線(中央大通り)
佐賀県道30号佐賀川副線(大財通り、水ヶ江通り)
佐賀県道31号佐賀川久保鳥栖線
佐賀県道39号富士三瀬線
佐賀県道46号中原三瀬線
佐賀県道48号佐賀外環状線
佐賀県道49号佐賀空港線(空港道路)
佐賀県道51号佐賀背振線
佐賀県道54号西与賀佐賀線
主な一般県道(その他の一般県道は佐賀県の県道一覧を参照)
佐賀県道333号佐賀環状東線(東部環状線(環状東通り))
その他の主要道路
県庁通り
佐賀南部広域農道

バス
以下の各社により、佐賀駅に隣接する佐賀駅バスセンターを中心に近隣の市町村とを結ぶ路線網が構築されている。
佐賀市交通局(佐賀市営バス):佐賀市内のうち主に平野部の全域に路線を持つ。佐賀市内発着の佐賀空港連絡バスも運行する。
昭和自動車(昭和バス):佐賀市北部の山間部や小城市北部・吉野ヶ里町北部・多久市・唐津市など、主に県北部・北西部・北東部と佐賀市中心部を結ぶ路線。
祐徳バス:武雄市・鹿島市・嬉野市など、主に県西部・西南部と佐賀市中心部を結ぶ路線。
西日本鉄道グループ(西鉄バス):子会社の西鉄バス久留米・西鉄バス佐賀が神埼市などの県東部や福岡県内の久留米市・大川市・柳川市と佐賀市中心部を結ぶ路線を運行している。また佐賀市中心部と福岡市中心部を結ぶ高速バス「わかくす号」、佐賀市中心部と福岡空港を結ぶ高速バス、佐賀空港と福岡市中心部を結ぶ高速バスを運行する。
ユタカ交通:京阪神と北部九州を結ぶ夜行高速バス「ユタカライナー」が金立サービスエリアに停車する。

船舶
市内には漁港しかなく、佐賀市を発着する一般旅客航路は無い。諸富町では、夏季に定期遊覧船や予約制遊覧船が運航している。




 

【壱岐の象徴・猿岩】

猿 岩

 

【全国の月讀神社、月讀宮の元宮】 

月 讀 神 社