基本情報
所在地:〒859-2211 長崎県南島原市西有家町里坊96番地2
電話:0957-73-6600
【Official site】
南島原市
南島原市(みなみしまばらし)は、長崎県島原半島南部に位置する市である。
名称
「長崎」という地名の由来は次のように長崎氏よりといわれている。長崎氏は桓武平氏千葉流(九州千葉氏)の流れを汲む氏族であり、長崎県の名の由来になったことで知られる。現在の長崎県庁舎付近の長い御崎に館を構え、長崎港界隈の深堀から時津までの広い範囲を領していた九州千葉氏の一族が九州長崎氏を名乗ったことを起源とする説と、代々伊豆国田方郡長崎村を領し、その地名を苗字として、鎌倉の執権である北條氏の筆頭御内人である桓武平氏長崎氏の一人が九州に流れ(九州長崎氏)、長崎湾の奥を領して地侍になったと長崎甚左衛門純景がその系図で主張している説がある。少なくとも[長崎小太郎重綱なる人物が、鎌倉初期の嘉禎三年(1237)ごろには、長埼浦の地頭職を知行する御家人であったことが判明しており、南北朝期以降、長崎氏は桜馬場城(鶴城)に拠り、次第に勢力を拡大していった。 また、その他にも俗説として「訛り」に基づく言い伝えがある。地元では野母崎半島を「長い岬」と称していたが、長崎弁では「長か岬(ながか・みさき)」となり、さらにこれが「なんか・みさき」と転訛し、この語が約まって「長崎」になった、というものである。
地理・地域
地形
東に佐賀県と隣接する他は、周囲を海に囲まれている。対馬、壱岐、五島列島などの島嶼が971あり、その数は日本一である。また、海岸線の長さは4,137kmであり、北海道に次いで国内2位である(北方領土を除いた場合には1位となる)。面積が北海道の約20分の1である長崎県の海岸線がこれほど長大であるのは、島嶼が非常に多いことに加え、リアス式海岸で海岸線が複雑に入り組んでいるためである。この地形的特徴により、長崎県全域に83箇所の港湾が点在しており、その数は国内の7.4%に及ぶ。なお、長崎県内には海岸線からの距離が15km以上の地点はない。
長崎県の主な地形
半島
島原半島、長崎半島、西彼杵半島、北松浦半島
山
平成新山 (1483m) 、雲仙普賢岳 (1359m) 、経ヶ岳 (1076m) 、五家原岳(1057.3m)、国見山 (776m) 、矢立山 (648m[3])
河川・湖沼
本明川、相浦川、佐々川
海域
玄界灘、対馬海峡、壱岐水道、伊万里湾、平戸瀬戸、辰ノ瀬戸
五島灘、角力灘、長崎湾、佐世保湾、針尾瀬戸、早岐瀬戸、大村湾
橘湾(千々石湾)、早崎瀬戸、島原湾、諫早湾、有明海、
東シナ海
島(太字のものは、橋によって九州本土と結ばれている島を表す)
対馬(対馬市)
壱岐島(壱岐市)
福島、鷹島、青島(松浦市)
平戸島、生月島、度島、的山大島、二神島(平戸市)
九十九島 (西海国立公園)(くじゅうくしま)、黒島、針尾島(佐世保市)
五島列島
宇久島(佐世保市宇久町)
小値賀島、野崎島(北松浦郡小値賀町)
中通島、若松島(南松浦郡新上五島町)
奈留島、久賀島、福江島(五島市)
男女群島、鳥島(五島市)
大島、蛎浦島、崎戸島、江島、平島、松島(西海市)
池島(長崎市)
伊王島、高島、端島(軍艦島)、樺島(長崎市)
九十九島(つくもじま、島原市)
自然公園
国立公園
雲仙天草国立公園、西海国立公園
国定公園
壱岐対馬国定公園、玄海国定公園
県立自然公園
多良岳県立公園、野母崎半島県立公園、北松県立公園、大村湾県立公園、西彼杵半島県立公園、島原半島県立公園
気候
南西方向から暖流の対馬海流が流入してくるため、全般的には気候は温暖で、寒暖差も小さい。しかしながら、大陸に近いために寒波の影響を受けやすく、平年を大きく下回るほどに寒さが厳しくなることもあり、真冬日が観測されることもある。冬場は東シナ海側を中心に曇りがちの天気になることが多く、時雨や雪を降らせることがある。積雪することは少ないが、すぐ西側は東シナ海なので季節風の風向によっては、雪雲が遮られずに供給されることにより、大雪となることがある。特に2001年(平成13年)1月16日には長崎市で14cmの積雪を観測し、さらに2016年(平成28年)1月24日には17cmの積雪を記録し[4]、県内各地で大雪となった。しかし、九州地方最北端の対馬では朝鮮半島のすぐ南側に位置するため、東シナ海で発生した雪雲は朝鮮半島に遮られる上、朝鮮半島との海上区間はわずか50km程と極端に短いため雪雲は発達せず、降雪日は多いものの積雪することは稀である。
生物的見地から見ると、各地の海岸に見られるアコウなどの亜熱帯性植物は温暖な気候を反映している。他にも大陸に近いためツシマヤマネコやムツゴロウなどの大陸系遺存種が多いこと、各地の離島で多くの亜種・変種が確認されていることなども特徴である。
島原半島は活火山地帯で温泉が多いが、1990年(平成2年) - 1995年(平成7年)の雲仙・普賢岳の噴火は島原市と深江町を中心に大きな被害をもたらした。また、東シナ海に突き出しているため、台風の上陸数も多く、長崎県に限らず、日本列島に大災害をもたらした台風9号(1970年、長崎市)、台風17号(1976年、長崎市)、台風17号(1991年、長崎市)、台風19号(1991年、佐世保市)、台風18号(2004年、長崎市)、台風14号(2005年、諫早市)、台風13号(2006年、佐世保市)などの台風が上陸している。
平成の大合併で消滅した自治体
本項では記事がある市町村のみを掲載。記事がないものについては、長崎県の廃止市町村一覧。
消滅した市・郡
福江市 - 五島市となった
北高来郡
諫早市になった町(4町すべて)
森山町・飯盛町・高来町・小長井町
南高来郡
雲仙市になった町(7町)
国見町・瑞穂町・吾妻町・愛野町・千々石町・小浜町・南串山町
島原市になった町(1町)
有明町
南島原市になった町(8町)
加津佐町・口之津町・南有馬町・北有馬町・西有家町・有家町・布津町・深江町
上県郡 - 3町すべて対馬市となった
上県町・上対馬町・峰町
下県郡 - 3町すべてが対馬市となった
厳原町・美津島町・豊玉町
壱岐郡 - 4町すべてが壱岐市となった
郷ノ浦町・勝本町・芦辺町・石田町
町村が減少したが、存続している郡
西彼杵郡 - 15町から2町へ減少(現在 時津町と長与町の2町のみ)
長崎市になった町(7町)
外海町・香焼町・伊王島町・高島町・三和町・野母崎町・琴海町
諫早市になった町(1町)
多良見町
西海市になった町(5町)
西彼町・大瀬戸町・西海町・崎戸町・大島町
北松浦郡 - 12町1村から2町へ減少(現在 小値賀町と佐々町の2町のみ。)
佐世保市になった町(6町)
吉井町・世知原町・宇久町・小佐々町・江迎町・鹿町町
平戸市になった町村(2町1村)
生月町・田平町・大島村
松浦市になった町(2町)
福島町・鷹島町
南松浦郡 - 10町から1町へ減少(現在 新上五島町の1町のみ)
五島市になった町(5町)
富江町・三井楽町・岐宿町・奈留町・玉之浦町
新上五島町になった町(5町)
上五島町・若松町・新魚目町・有川町・奈良尾町
地名
長崎県内には、対馬を除く地域において市町村下の地名の末尾に付する独特の単位が複数存在する。壱岐島では農村集落で「○○触(ふれ)」、漁村集落で「○○浦(うら)」、壱岐を除く旧平戸藩領では「○○免(めん)」、旧大村藩領および五島列島では「○○郷(ごう)」、旧佐賀藩領および旧島原藩領では「○○名(みょう)」が付く。
これらの単位の中には市町村合併などで町名の変更があった際に削除されるものも多いが、現在も市町村下の行政区画単位として一部の地域で使われ続けている。
歴史
古くは肥前国(佐賀県と、壱岐・対馬を除く長崎県全域)、対馬国、壱岐国に分かれていたが、肥前の国府は佐賀県の佐賀市(旧大和町)にあった。
先史
現在の佐世保市に当たる地域からは、福井洞窟や泉福寺洞窟などの遺跡が見つかっており、いずれも日本の史跡となっている。また、旧国見町(現在の雲仙市)には、百花台遺跡群があり、約3万年前に人々が生活した跡や使われていた道具が見つかっている。
縄文時代の遺跡として有名なのが、南島原市(旧南高来郡北有馬町)の原山支石墓群である。そのほか、有喜貝塚、佐賀貝塚、白浜貝塚などが発見されている。2003年(平成15年)12月には、平戸市入口遺跡で10万年前の地層から旧石器が見つかり、古くから人が居住していた可能性が考えられる。
弥生時代の遺跡としては、『魏志倭人伝』に登場する「一支国」と見られる原の辻遺跡は現在の壱岐市芦辺町、石田町にあり、日本の特別史跡に指定されている。また里田原遺跡が発見されており、当時の農業技術を知る上で重要なものの1つである。またこのほか、弥生時代の鉄剣が出土した富の原遺跡(大村市)、塔の首遺跡、日本最古のネコの骨が出土したカラカミ遺跡(壱岐市)などがある。
古墳時代
県内の古墳の数は500を超え、その大半は壱岐に存在し壱岐古墳群として日本の史跡に指定されている。古墳時代初期の古墳としては、対馬市の出居塚古墳、根曽古墳群がある。後期に入ると、大規模な古墳が多くなる。その代表としては壱岐市の鬼の窟古墳があり、これは県内最大の円墳である。このほかには双六古墳(これは県内最大の前方後円墳である)、矢立山古墳群、曲崎古墳群がある。
飛鳥時代
倭国が朝鮮半島での白村江の戦いに敗れたため、664年に対馬・壱岐などに防人や烽(とぶひ)を置き、唐や新羅からの侵攻に備えた。667年には対馬に金田城が築かれた。
奈良・平安時
小野妹子をはじめとする遣隋使や遣唐使は、日本の最西北である壱岐や対馬、五島を経由し、朝鮮半島や中国に渡っていた。五島列島は遣唐使南路の出発地として有名である。万葉集には関連した歌が数多く残されている。日本最後の寄港地であった、現在の三井楽町柏崎には、空海の「辞本涯の碑」が建てられている。
12世紀のはじめに入ると、平家の西日本への進出が進み、肥前国の松浦党や九州の武士の多くは平家方につき、松浦党は壇ノ浦の戦いにおいても平家方の水軍として戦った。
中世
中世には松浦党などの海賊衆(水軍)が興り、対馬を含め各地が倭寇の根拠地となった。
1274年(文永11年)(文永の役)、1281年(弘安4年)(弘安の役)の元寇では対馬、壱岐、鷹島に元・高麗軍が襲来したが、「神風」(大型台風)が九州を襲い元軍が退却したのはこれらの島々が破壊しつくされた後であり、これらの島々に神風の恩恵は全く無かった。
室町時代に入り、1419年には応永の外寇、1507年には五島で玉之浦納の反乱が起こっている。
1550年には、ポルトガル船が平戸に来航した。これを知ったフランシスコ・ザビエルは鹿児島を出発し平戸を訪れ、布教を開始した。貿易都市となった平戸であったが、1561年に起きた宮ノ前事件によりポルトガル船は横瀬浦港(現在の西海市)に入港するようになった。ところが2年後の1563年、横瀬浦は武雄領主後藤貴明の焼き討ちに合い、壊滅。ポルトガル船は再び平戸に戻った。しかし、イエズス会の宣教師コスメ・デ・トーレスの意向により、今度は大村領の福田浦(現在の長崎市)に入港することになった。この間、大村純忠はキリスト教の洗礼を受け、初のキリシタン大名となっている。1567年には、ポルトガル船が有馬領の口之津港に入港し、後にセミナリヨが建てられるなど、有馬は九州におけるキリスト教布教の拠点となっていった。大村純忠の兄である有馬義貞も口之津で洗礼を受けている。大村純忠は、ポルトガル貿易を自分の領地で行えるよう働きかけを行い、1571年に貿易港が口之津から長崎に移された。1580年には長崎をイエズス会に寄進した。1582年には天正遣欧少年使節が長崎港を出発し、スペイン、イタリア、ポルトガルを訪問した。
1588年、豊臣秀吉が長崎などを直轄地とした。2年後には天正遣欧少年使節が長崎に戻り、秀吉に謁見している。1592年には文禄・慶長の役により、松浦鎮信、有馬晴信、大村喜前、宗義智らが朝鮮に出兵している。南蛮貿易を継続させたい意向もあり、強硬な禁教は行っていなかった秀吉であったが、すでにバテレン追放令が出されており、1597年には長崎西坂でカトリック信者26人が処刑されている。二十六聖人という。
近世
17世紀にはいるとオランダ東インド会社、イギリス東インド会社が相継いで平戸に商館を開設している。江戸時代の長崎県は佐賀藩、島原藩(島原半島)、大村藩(彼杵地方)、平戸藩(松浦半島・平戸島・壱岐)、平戸新田藩、福江藩(五島列島)、対馬府中藩(対馬)、佐賀藩家老の諫早陣屋、交代寄合の五島家の富江陣屋、天領(長崎)に分かれる。江戸幕府の鎖国方針により、ポルトガル人は長崎から追放され、1641年にオランダ商館が出島に移った。中国商船の長崎来航も認められており、長崎は鎖国下の日本では数少ない国際貿易港となった。また、対馬藩は幕府から李氏朝鮮との国交の実務を委任される傍ら朝鮮との貿易を公認され、釜山に倭館を置いてこれらの業務を行っていた。このように、今の長崎県域には、鎖国時にも幕府公認で海外へ開かれていた港が2箇所存在した。なお、鎖国下における江戸幕府公認の国際貿易港は上記2港のみである。
1637年島原の乱が起こった土地だけに江戸期を通じて隠れキリシタンが多く存在した(壱岐・対馬を除く)。現在でも、人口に対するキリスト教信者の割合が日本の他地域と比べて多い地域 となっている。しかし、第二次世界大戦中に投下された原子爆弾は教会(浦上教会)のすぐ近くに落ち、原爆落下当日は教会で8月15日の聖母の被昇天の祝日に向けて「ゆるしの秘跡」が行われていた為、司祭をはじめ教会内にいた信徒全員が死亡し、その他にも多数の信徒が犠牲になったことなどから、信仰に悩みを持ったままの人や棄教した人も多く存在する。2013年現在でも、爆心地跡には教会の残骸が一部だけ保存されている。
近代以降
幕末の長崎港開港によって各国商船が来航し、長崎は国際貿易港として更に発展を遂げる事となった。それまでは遠国奉行首座たる長崎奉行が治めていた長崎であったが、「鳥羽・伏見の戦い」に於ける幕府軍敗戦の報を聞いた長崎奉行河津祐邦は慶応4年(1868年)1月15日早朝に長崎を船で脱出。これを受けて、長崎詰めの各藩藩士や長崎の地役人達の間に協議が行われ、政府から責任者が派遣されるまでの間の暫定協議体として「長崎会議所」の設置が決定され、長崎奉行所西役所がその役所とされた。
江戸幕府崩壊後の慶応4年(1868年)2月2日には澤宣嘉を総督に長崎裁判所が、5月4日には沢を府知事に長崎府が設置され、肥前国松浦郡5村・彼杵郡6村・高来郡5村、筑後国三池郡12村、肥後国天草郡89村の幕府領および肥後国松浦郡の旗本領5村を管轄。明治2年(1869年)6月20日にはこれが長崎県へと改められ、旧肥前国域は明治4年(1871年)の第1次府県統合の際に長崎県と伊万里県(現佐賀県)とに分立した。その後、佐賀県の統廃合の影響で徐々に長崎県の県域は拡大し、1874年(明治7年)の佐賀の乱後には、政府による懲罰によって佐賀県全域が長崎県に併合されることとなる。1883年(明治16年)、佐賀県の復県によって10の郡が長崎県より分離し、おおよその現在の長崎県が成立した。
なお、天草諸島は一時、富岡県(のち天草県に改称)に移管されたのち、いったん長崎府に復帰し、第1次府県統合で八代県(現・熊本県)に移管された。
佐世保は日本海軍の大規模な軍港となり、長崎では戦艦武蔵が建造されるなど造船が発達した。第二次世界大戦末期、1945年(昭和20年)6月29日(未明)に佐世保大空襲があり、1945年(昭和20年)8月9日午前11時2分 (JST) 米国陸軍爆撃機B-29ボックスカーによって長崎市に原子爆弾が投下され、広島市とともに原爆被災地となった。
経済・産業
産業
平成20年度(2008年 - 2009年)の県内総生産は4兆3109億円である。これは世界の過半数の国の国内総生産 (GDP) よりも規模が大きい[7]。県民所得は3兆1070億円であり、一人当たり県民所得は215.7万円である。
県庁所在地長崎市は歴史を誇る港湾都市で、観光客が多い。戦艦武蔵を建造した造船の町でもある。
県第2の市である佐世保市は昔からの軍港があり、現在も海上自衛隊や米第7艦隊の基地があるほか、陸上自衛隊も駐屯している。また、南部にはヨーロッパの町並みを模した観光施設ハウステンボスがあり、韓国や台湾からの観光客も多い。
その他の地域もかつては炭鉱、底曳き網などの漁業基地、宝石サンゴ漁などにより繁栄したが、1970年代頃からそれらの産業が徐々に振るわなくなり、過疎化が進んだ。2000年代となっても過疎化は進行中で、産業の振興が重要課題となっている。
なお、壱岐・対馬地区は経済圏としては長崎や佐世保ではなく福岡に属する。
県内に拠点事業所を置く企業
十八銀行(長崎市)
親和銀行(佐世保市)
ジャパネットたかた(佐世保市)
SUMCO TECHXIV(大村市)
アイティーアイ(長崎市)
ひぐちグループ(長崎市)
AIGコミュニケーションワン(長崎市):AIGグループのコールセンター
たらみ(長崎市)
ゆびとま(長崎市)
工場
三菱重工業(長崎造船所など)
三菱電機(長崎市など)
佐世保重工業(佐世保市)
ソニーセミコンダクタ九州(諫早市)
アリアケジャパン(佐世保市)
マリーナ電子(南島原市)
宝酒造(島原市)
九州フジパン(諫早市)
産学官連携への取り組み
2010年11月30日、産学官関係団体の連携を強化し、産学官の研究開発等を推進することにより、持続的・発展的にイノベーションを創出するシステムを構築し、科学技術による産業振興及び県民生活の向上に寄与することを目的として、長崎“新生”産学官連携コンソーシアム(通称NRC:Nagasaki Renaissance Consortium)が設立された。会長は長崎県知事、副会長は長崎大学長。
生活・交通
治安・防衛
自衛隊
陸上自衛隊西部方面隊
相浦駐屯地(佐世保市)
対馬駐屯地(対馬市)
大村駐屯地(大村市)
竹松駐屯地(大村市)
海上自衛隊佐世保地方隊
佐世保基地(佐世保市)
大村航空基地(大村市)
対馬警備所(対馬市)
上対馬警備所(対馬市)
下対馬警備所(対馬市)
壱岐警備所(壱岐市)
航空自衛隊西部航空方面隊
海栗島分屯基地(対馬市)
福江島分屯基地(五島市)
海上保安庁[編集]
第七管区海上保安本部
長崎海上保安部(長崎市)
五島海上保安署(五島市)
佐世保海上保安部(佐世保市)
平戸海上保安署(平戸市)
対馬海上保安部(対馬市)
比田勝海上保安署(対馬市)
(唐津海上保安部)(佐賀県唐津市)
壱岐海上保安署(壱岐市)
警察[編集]
長崎県警察
警察署数 - 23
交番数 - 73
警察官駐在所数 - 127
(2011年(平成23年)4月現在)
【壱岐の象徴・猿岩】
【全国の月讀神社、月讀宮の元宮】