住所:〒870-8504 大分県大分市荷揚町2番31号
電話:097-534-6111
【Official site】
大分市
大分市(おおいたし)は、日本の九州地方の東部、大分県の中部に位置する市。同県の県庁所在地であり、中核市に指定されている。人口は、東九州で鹿児島市に次ぐ2位で、九州内では福岡市、北九州市、熊本市、鹿児島市に次ぐ第5位の都市である。
概要
大分市は、大分県沿海部のほぼ中央に位置する、東九州の主要都市のひとつである。約48万人の人口を擁し、中核市の指定を受けている。大分県内の人口の約40%が集中する首位都市であり、人口約70万人の大分都市圏の中心でもある。現在の市域は、かつて大分郡及び北海部郡(明治初期までは海部郡)に属していた。
古くは豊後国の国府が置かれ、府内(ふない)と呼ばれた。中世には大友氏の城下町として発展し、戦国時代にはキリシタン大名大友宗麟の庇護のもと、日本におけるキリスト教布教の中心地となり、南蛮文化が花開いた。
高度経済成長期に鉄鋼業、化学工業などの重化学工業の進出に伴い工業都市として急成長し、近年では電子工業の立地が進んでいる。
地理
大分川及び大野川が形成した三角州及び沖積平野からなる大分平野と、その周りの丘陵とを抱え、瀬戸内海の別府湾に面する。市の東部には南から大野川が、西部には西から大分川が流れ、瀬戸内海に注いでいる。中心市街は、大分川の河口部西側にある。ニホンザルが生息することで知られる別府市との境界付近の高崎山地区、及び、豊予海峡に浮かぶ高島地区は、瀬戸内海国立公園に指定されている。
近年、市域を東西に貫通する形で大分自動車道、東九州自動車道が開通し、国道10号、国道210号等と接続している。
市内の郊外地域ではショッピングセンターやニュータウンなどの開発により、人口の増加が著しい。
東端 - 東経131度57分46秒
西端 - 東経131度25分07秒
南端 - 北緯 33度04分11秒
北端 - 北緯 33度17分24秒
気候
瀬戸内海式気候に属し、年間を通じて温暖、少雨である。平均気温は16.4℃、降水量1644.6mm(平年値)。ただし、旧大分郡野津原町地域は障子岳、御座ヶ岳等の600〜800m級の山々が連なり、内陸部への入り口に当たるため内陸性気候に属し、平地より気温が若干低くなる。
気温 - 最高37.8℃(2013年(平成25年)7月24日、最低-7.8℃(1918年(大正7年)2月19日)
最大降水量 - 443.7ミリ(1908年(明治41年)8月10日)
最大瞬間風速 - 44.3メートル(1999年(平成11年)9月24日)
夏日最多日数 - 152日(2005年(平成17年))
真夏日最多日数 - 75日(1990年(平成2年)、2010年(平成22年))
猛暑日最多日数 - 24日(2013年(平成25年))
熱帯夜最多日数 - 35日(2010年(平成22年))
冬日最多日数 - 67日(1918年(大正7年)、1936年(昭和11年))
隣接する自治体
別府市
臼杵市
竹田市
豊後大野市
由布市
愛媛県西宇和郡伊方町(海上)
歴史
古代
古代には、現在の大分市周辺は大分郡(おほきたのこほり)と呼ばれ、現在の市の中心部からやや南に外れた大分川下流沿い(現在の古国府)に、豊後国の国府が置かれたと推測されている。
「大分」の名は、『豊後国風土記』によれば、景行天皇がこの地を訪れた際に「広大なる哉、この郡は。よろしく碩田国(おおきたのくに)と名づくべし」と言って名づけたもので、「碩田」が後に「大分」と書かれるようになったとされる。実際には大分平野はさほど広大であるとは言えないため、今日では、景行天皇の言葉は、平野の広大さではなく、多くの田が並ぶ様子を描写したものと解されているが、いずれにしても大分平野に古くから田圃が開けていたことを示すものと言える。
中世
鎌倉時代には大友氏が豊後国守護に任じられ、第3代当主大友頼康(貞応元年(1222年) - 正安2年(1300年))の時代に豊後国に下向して土着した。元弘3年(1333年)には豊後国の守護職に任ぜられている。室町時代に入ると、第7代当主大友氏泰は、拠城をわずかに北にずらして大分川河口付近に館を構えた(現在の市の中心部の東部で、顕徳町にあたる)。これが現在の大分市に連なる城下町のはじまりで、町の名を府内といった。現在の大分市街地中心部に残る「府内町」という地名や「府内5番街」という商店街はこの名残である。
戦国時代の府内は、最盛期には九州の過半を手中に収めた第21代当主大友義鎮(宗麟)のもとで、日本で初めての西洋式の病院が開設されるなど、南蛮文化を受容し栄えた。しかし、大友氏は島津氏等との抗争に敗れて衰退し、府内は1586年(天正14年)の島津家久の侵攻によって炎上し壊滅したとされる。近年、大分駅付近の連続立体交差事業および区画整理事業に伴い、大友氏館跡をはじめとする中世から戦国時代にかけての府内の遺跡が発掘され、2001年(平成13年)には大友氏館跡として国の史跡に指定されている。
宗麟の跡を継いだ大友義統が文禄の役での失態のために改易された後、豊後国は細分され諸侯に封じられた。1597年(慶長2年)に府内を封じられた福原直高は府内城の築城を開始した。
近世
1601年(慶長6年)、関ヶ原の戦いの戦功により府内藩(大分藩)の藩祖となった竹中重利によって府内城(大分城)は大規模な改修が行われ、1607年(慶長12年)に近世の大名の居城である府内城(大分城)の規模となった。大分の城下町もまた重利によって整備され、後の繁栄の基となった。
江戸時代の府内は、1712年(正徳2年)の調査によると5,591人の人口を擁しており、豊後最大級の城下町であった。
現在の市域には、府内藩の藩庁が在った他は、幕末に延岡藩・熊本藩・臼杵藩・岡藩・幕府の領土が存在した。
近代[編集]
明治になると、府内には大分県の県庁が置かれ、1889年(明治22年)の町村制施行により大分町となった。明治の大合併と呼ばれる市町村合併が進む中、1907年(明治40年)に3町村を編入。1911年(明治44年)には市制を施行した。1920年(大正9年)の人口は、4万3,150人であった。
戦後・現代
旧大分市域(1963年3月10日 - 2004年12月31日)
全国の都市の中でも、大分市はここ40年の間に急激に成長した都市のひとつである。
1950年代には大分市の人口は10万人弱で、宮崎市よりもわずかに少なく、九州(沖縄県を除く)では佐賀市に次いで2番目に小さな県庁所在地であった。
1960年代に入ると、高度経済成長の恩恵を受けるべく、工業振興による発展を図って新産業都市指定を目指した。人口要件を満たすために1963年(昭和38年)に鶴崎市や大南町などとの大合併(新設)に踏みきり、1964年(昭和39年)1月に新産業都市に指定されると、沿岸部に新日鉄などの大工場が進出した。それまでの鄙びた小都市から九州を代表する工業都市へと急速に開発が進み、大分市は「新産都の優等生」と呼ばれた。
人口も1960年代以降急激に増加し、1963年(昭和38年)の合併時には21万人であった人口が、1970年(昭和45年)には26万人、1980年代には36万人、1990年代には40万人を突破し、ほぼ倍増するという著しい増加を見せた。周辺部の丘陵地帯には次々に大規模な住宅団地が造成され、城南団地、明野団地、敷戸団地などのニュータウンがスプロール化して連なる特異な郊外環境が誕生した。
また、新産業都市としての発展にともない、1970年代には長崎屋、ダイエー、ニチイ、ジャスコ、西友など関東・関西資本の大型スーパーが大分駅前に多数進出し、地場百貨店のトキハなどとともに九州では珍しい首都圏の郊外都市のような駅前繁華街が形成された。その後、商業のドーナツ化が進み、2009年までに中心部の大型スーパーはすべてが業態転換または撤退した。一方、2015年(平成27年)春には大分駅にアミュプラザおおいたが開業している。
1997年(平成9年)4月1日には、中核市に指定されている。
平成の大合併では、2005年(平成17年)1月1日、佐賀関町及び野津原町が大分市に編入された。2014年8月現在、大分市は、福岡市、北九州市、熊本市、鹿児島市に次いで九州で5番目に人口が多い市である。
行政区域の変遷
1889年(明治22年)4月1日 - 町村制施行により、以下に示す各町村が発足する。
大分郡大分町・西大分町・鶴崎町・別保(べっぽ)村・三佐(みさ)村・桃園村・松岡村・高田村・明治村・荏隈(えのくま)村・豊府(ほうふ)村・東大分村・八幡村・日岡村・戸次(へつぎ)村・判田村・河原内(かわらうち)村・竹中村・吉野村・稙田(わさだ)村・東稙田村・西稙田村・賀来(かく)村・諏訪村・野津原村
北海部郡佐賀関町・川添村・一尺屋(いっしゃくや)村・大志生木(おおじうき)村・神馬木村・佐加村・市村・小佐井村(こざい)・丹生(にう)村・西大在(にしおおざい)村・東大在村
大野郡今市村
1892年(明治25年)10月28日 - 佐加村が佐賀村と改称する。
1907年(明治40年)4月1日
大分町が西大分町・荏隈村・豊府村を編入する。
河原内村を竹中村に編入する。
西稙田村を稙田村に編入する。
諏訪村を野津原村に編入する。
1907年(明治40年)6月1日 - 西大在村と東大在村が合併(新設合併)し、大在村となる。
1907年(明治40年)7月1日
佐賀村と市村が合併(新設合併)し、佐賀市村となる。
大志生木村と神馬木村が合併(新設合併)し、神崎村となる。
1911年(明治44年)4月1日 - 大分町が市制施行し、大分市となる。
1920年(大正9年)1月1日 - 佐賀市村が町制施行し、坂ノ市町となる。
1921年(大正10年)1月1日 - 戸次村が町制施行し、戸次町となる。
1938年(昭和13年)4月1日 - 別保村を鶴崎町に編入する。
1939年(昭和14年)8月15日 - 八幡村・滝尾村・東大分村を編入する。
1941年(昭和16年)11月3日 - 小佐井村・丹生村を坂ノ市町に編入する。
1943年(昭和18年)4月1日 - 三佐村を鶴崎町に編入する。
1943年(昭和18年)11月11日 - 日岡村を編入する。
1944年(昭和19年)2月11日 - 桃園村を鶴崎町に編入する。
1950年(昭和25年)1月1日 - 川添村・今市村の所属郡を大分郡に変更する。
1954年(昭和29年)3月31日
鶴崎町・松岡村・高田村・明治村・川添村が合併(新設合併)、同時に市制施行し、鶴崎市となる。
戸次町・判田村・竹中村・吉野村が合併(新設合併)し、大南町となる。
1955年(昭和30年)1月1日
佐賀関町・神崎村・一尺屋村が合併(新設合併)し、新たに佐賀関町となる。
東稙田村の一部・賀来村の一部を編入する。
1955年(昭和30年)2月1日 - 稙田村・東稙田村・賀来村が合併(新設合併)し、大分村となる。
1955年(昭和30年)3月31日 - 今市村を野津原村に編入する。
1955年(昭和30年)7月1日 - 鶴崎市の一部、挾間町の一部を編入する[9]。
1957年(昭和32年)4月1日 - 大分村が町制施行し、大分町となる。同日、一部地域が分離され、挾間町に編入される。
1959年(昭和34年)2月1日 - 野津原村が町制施行し、野津原町となる。
1963年(昭和38年)3月10日 - 大分市・鶴崎市・大分町・大南町・大在村・坂ノ市町が合併(新設合併)し、新たに大分市となる。
2005年(平成17年)1月1日 - 北海部郡佐賀関町・大分郡野津原町を編入する。
【壱岐の象徴・猿岩】
【全国の月讀神社、月讀宮の元宮】