九州・壱岐の偉人~松永安左エ門~その1
★『電力の鬼』・『電力王』松永安左エ門★
。
安左エ門は1875年(明治8年)、長崎県壱岐生まれ。電気事業に携わり『電力の鬼』・『電力王』と呼ばれるだけでな
く、政治、経済界など、多方面に大きな影響を与えた人物です。国営電力会社を九分割して民営による電力体制を築
き上げ、当社の前身である九州電燈鉄道の経営にも参画した人でもあります。
「今やらねばいつ出来る。わしがやらねば誰がやる」。強い決意が現れた自身の言葉が物語るように、常に時代の10
年、20年先を見据えて電気事業に尽力し、戦い続けてきた安左エ門。豪快な性格、筋金入りの反骨精神の持ち主であ
ったことで知られ、また産業人であると同時に、すぐれた茶人(茶号:耳庵)でもありました。
次回は、安左エ門の故郷、長崎県壱岐にある「松永安左エ門記念館」を訪れ、多くの人を惹きつける安左エ門の魅力
に迫っていきます。
▼安左エ門の詳細(年譜・生涯)についてはこちら
http://l.kyuden.jp/qside30
九州・壱岐の偉人~松永安左エ門~その2
★安左エ門を肌で感じることができる場所★
博多港より高速船で約1時間。玄界灘に浮かぶ風光明媚な島、長崎県壱岐に「松永安左エ門記念館」はあります。
明治、大正、昭和と三時代にわたり日本の電力の普及と振興に努め、産業経済発展の基礎を築いた松永安左エ門。こ
の記念館は、安左エ門が亡くなった1971年(昭和46年)に開館しました。
生家と隣接する本館には、安左エ門が生前愛用していた生活用品や書画、褒章などが展示されています。
また、中庭には、1909年(明治42年)に安左エ門が福岡市で設立した鉄道会社・福博電気軌道が原点となった西日本鉄
道の路面電車や、長崎平和祈念像を制作した彫刻家・北村西望による松永安左エ門像が置かれており、安左エ門の功
績を学ぶことができる施設です。
この記念館には、全国各地から毎年約7,000人の方が来館されており、多くの来館者が、松永の生き方に感銘を受けた
と言って帰られるそうです。
九州・壱岐の偉人~松永安左エ門~その3
★「松永安左エ門記念館」 館長・定村隆久さん★
定村館長は昭和26年、壱岐生まれ。13年前より記念館の仕事に携わっています。
「壱岐出身者にとって安左エ門は雲の上の存在であり、誇りでもあります。晩年、壱岐に帰ってきた時は、島民総出
で出迎えたほど。亡くなったことを伝える新聞を、当時二十歳の私は走って買いに行ったのを覚えています。記念館
の仕事に就いてから、ますます安左エ門の虜になりました。調べれば調べるほど魅力が増していく方です」と定村館
長。
「先見性、国際感覚、柔軟性を兼ね備え、芯のぶれない生き方は現代の我々にも強く響きます。何より、人も物も“
本物”を追い求め続けた人でした。安左エ門は“電力の鬼”と呼ばれた人ですが、いい意味も悪い意味も持つ“鬼”
の本質を来館者の皆さまそれぞれで感じてほしいです」と思いを語っていただきました。
九州・壱岐の偉人~松永安左エ門~その4
★幼少期の安左エ門★
安左エ門は1875年(明治8年)、長崎県壱岐郡(現壱岐市)石田村印通寺に生まれました。安左エ門の祖父が、一代で
呉服販売や酒造業、船舶運送など多くの事業を展開し、資産を成した実業家でした。
松永安左エ門記念館の定村館長は「安左エ門は幼い頃から負けず嫌いでガキ大将的な存在。敏腕な祖父の影響を強く
受けて育ったのだと思います。時代は日本が朝鮮を併合し大陸を向いているとき。また、石田地区は海産物などの積
出港で情報が集まってくる環境でした。幼少の安左エ門も、新しいものに敏感だったのでしょう」と話します。
写真は、そんな安左エ門が生まれ育った生家です。記念館に併設されており、中は当時の面影をそのままに、調度品
や当時の金庫なども展示されています。ここでたくさん遊び、多くを学んだ安左エ門は、まだ幼いのに伊藤博文のよ
うな総理大臣に自分もなれると信じて疑わなかったそうです。
その後、安左エ門は福澤諭吉の「学門のすすめ」を読んで感動し、15歳のとき諭吉に教えを請うため家業を捨てて上
京。慶應義塾に入学しました。
「負けず嫌いの安左エ門は上京を両親に大反対された時は、4日間ご飯を食べずに説得したそうです。祖父からの帝王
学、福澤諭吉の民力重視の教えが、松永安左エ門という独特な人格を形成した大きな基盤になったと思います。そし
て、実業家への道へのめり込んでいくきっかけになったのが、福澤諭吉の養子である福澤桃介との出会いでした」と
、若き安左エ門の様子を身振り手振りで詳しくお話しいただきました。
九州・壱岐の偉人~松永安左エ門~その5
★福澤桃介との出会い★
慶應義塾で福澤諭吉の門下生になった安左エ門は、父の急逝により、塾を中退し家業の海運業を継ぎましたが、学問
への志が捨てられず3年で廃業、1895年(明治28年)、ふたたび塾に戻ります。その時、安左エ門の人生を大きく変え
る盟友、福澤桃介と出会います。2人とも福澤諭吉の教えを散歩しながら学ぶ「散歩党」のメンバーでした。
この頃のお話しを松永安左エ門記念館(壱岐)の定村館長は、
「福澤桃介は、あの福澤諭吉が娘婿にしてまでその才能にほれ込んだ人物。理路整然とした思考の持ち主で、一方の
安左エ門は動物的な直感を持つ行動派。全く性格の違う2人ですが、お互いにない資質を認め、馬が合ったようです。
桃介は、安左エ門の一本気な性格だけでなく、悪酔いせず、まわりを楽しませる豪快な酒の飲み方も気に入っていた
よう。安左エ門は兄貴分である桃介をはじめ、まわりのさまざまな考え方を、スポンジが水を吸うようにどんどん吸
収していきました。その豊かな感受性、柔軟性も彼のすごさの一つだと思います」と話してくれました。
安左エ門は桃介の紹介で日本銀行に勤めますが、サラリーマンは性に合わず、わずか1年で退職。26歳の時に桃介と2
人で神戸に「福松商会」を立ち上げ、石炭の売買を中心に商売を始めます。
「時には、九州から大阪に石炭を納入する仕事で1日500円(現在の1千万円くらいの価値)儲かっていたとか。また、
大島紬の着流し姿で神戸の町を闊歩する様を見て『壱岐の海賊』と呼ばれていたそうです。ある時、取引先の銀行の
支店長が、見所のある奴だがこのままでは体を壊してしまうからと見合いを世話し、大分県中津の竹岡一子と結婚し
ます。自分の結婚式当日ですら、ギリギリまで仕事をしてから会場に駆けつけたというほど、ビジネスにのめり込ん
でいたのだ思います」と定村館長は話します。
事業の成功、結婚と公私ともに順風満帆にもみえる青年期の安左エ門ですが、無一文になってしまう出来事も・・・
。
九州・壱岐の偉人~松永安左エ門~その5
★福澤桃介との出会い★
慶應義塾で福澤諭吉の門下生になった安左エ門は、父の急逝により、塾を中退し家業の海運業を継ぎましたが、学問
への志が捨てられず3年で廃業、1895年(明治28年)、ふたたび塾に戻ります。その時、安左エ門の人生を大きく変え
る盟友、福澤桃介と出会います。2人とも福澤諭吉の教えを散歩しながら学ぶ「散歩党」のメンバーでした。
この頃のお話しを松永安左エ門記念館(壱岐)の定村館長は、
「福澤桃介は、あの福澤諭吉が娘婿にしてまでその才能にほれ込んだ人物。理路整然とした思考の持ち主で、一方の
安左エ門は動物的な直感を持つ行動派。全く性格の違う2人ですが、お互いにない資質を認め、馬が合ったようです。
桃介は、安左エ門の一本気な性格だけでなく、悪酔いせず、まわりを楽しませる豪快な酒の飲み方も気に入っていた
よう。安左エ門は兄貴分である桃介をはじめ、まわりのさまざまな考え方を、スポンジが水を吸うようにどんどん吸
収していきました。その豊かな感受性、柔軟性も彼のすごさの一つだと思います」と話してくれました。
安左エ門は桃介の紹介で日本銀行に勤めますが、サラリーマンは性に合わず、わずか1年で退職。26歳の時に桃介と2
人で神戸に「福松商会」を立ち上げ、石炭の売買を中心に商売を始めます。
「時には、九州から大阪に石炭を納入する仕事で1日500円(現在の1千万円くらいの価値)儲かっていたとか。また、
大島紬の着流し姿で神戸の町を闊歩する様を見て『壱岐の海賊』と呼ばれていたそうです。ある時、取引先の銀行の
支店長が、見所のある奴だがこのままでは体を壊してしまうからと見合いを世話し、大分県中津の竹岡一子と結婚し
ます。自分の結婚式当日ですら、ギリギリまで仕事をしてから会場に駆けつけたというほど、ビジネスにのめり込ん
でいたのだ思います」と定村館長は話します。
事業の成功、結婚と公私ともに順風満帆にもみえる青年期の安左エ門ですが、無一文になってしまう出来事も・・・
。
九州・壱岐の偉人~松永安左エ門~その6
★人間力を高めた一回目の閑居生活★
松永安左エ門は人生において、大きく2度の閑居生活を経験します。
最初は31歳の時。日露戦争後のバブル崩壊による明治40年の株の大暴落での大損失、同年に起きた大阪に持っていた
屋敷の焼失という悲運に見舞われた直後です。
松永安左エ門記念館(壱岐)の定村館長は、
「まさに弱り目にたたり目の安左エ門は、神戸で約1年半の間、世間から離れ、自分を見つめ直すことに専念します。
できるだけ人に会わずに書物を読みふけり、座禅を組み、福澤諭吉の教えを再確認するなど、深く自省をしました。
そして導き出した答えが、残りの人生は世の中のために尽力すること。この1年半が安左エ門にとってのターニングポ
イントになったのではと私は思います。この後は、再起をかけた福博電気軌道のプロジェクトを皮切りに、経済界や
インフラ事業など、松永は破竹の勢いで活躍していきます」と、大成功の陰にあったエピソードをとても印象深くお
話しいただきました。
九州・壱岐の偉人~松永安左エ門~その7
★福岡に電車を走らせる★
1910年(明治43年)に博覧会「九州沖縄八県連合共進会」が開催されることになった福岡市では、都市の発展には欠
かせないとして市内電車の敷設が決まります。“福岡に電車を走らせる”。この一大プロジェクトの責任者として白
刃の矢がたったのが松永安左エ門でした。安左エ門は当時、神戸に閑居していましたが、再起をかけるため事業に参
画します。
松永記念館の定村館長は当時の安左エ門についてこう話します。
「『人生50年というが、残りの人生は社会のため、人の暮らしのために』との一年半に及ぶ内省の日々で得た決意が
、安左エ門を初めての公共事業へと動かしました。電車を走らせることは莫大なお金がかかります。安左エ門はまず
資金集めに奔走。石炭業で信頼を得ていた福岡、名古屋の財閥から30万円、そして安左エ門の兄貴分である福澤桃介
が30万円を出資し資本金60万円(現在の100億円以上の価値)で『福博電気軌道株式会社』(西日本鉄道の前身)を設
立します。社長に福澤桃介、専務取締役に松永安左エ門が就きました。安左エ門は市場調査や工事の現場監督も積極
的に引き受け、時には豆を食べながらその数で通行量を数えた、という話もあるほど。徹底した現場主義はこの頃か
ら変わりません」。
「福博電気軌道」は当時、日本一安い運賃の電車としても話題になりました。
安左エ門は福岡での電車事業に関わり、未来の日本における動力の重要性を改めて感じました。この後さらに大きな
規模で電力事業へと進出していきます。
九州・壱岐の偉人~松永安左エ門~その8
★東邦電力設立★
1909年(明治42年)に福博電気軌道を設立した松永安左エ門は、翌年佐賀の広滝水力電気と合併して九州電気、さら
に博多電灯を合併し九州電灯鉄道を設立。破竹の勢いで事業を展開していきます。そして、福澤桃介の意向に沿い関
西電機(名古屋電燈と関西水力電気が合併)と九州電燈鉄道が合併し、1922年 (大正11年)に「東邦電力」が誕生。
松永安左エ門記念館の定村館長はこう話します。
「名古屋電燈の福澤桃介に、経営参画を打診された安左エ門は『自分の思い通りにしていいのなら』との条件でこれ
を受け入れます。ただし東邦電力では自身は副社長に。福博電気軌道の時と同じで、自分はあくまで現場の実行部隊
でありたいとの思いが強かったのでしょう。それを裏付けるように、その後、安左エ門は各地の変電所に泊まりこむ
など視察、研究を重ね、名古屋での大型発電所の建設もただちにやってのけます。また、これも安左エ門らしいと思
うのですが、福松商会時代のライバルだった名古屋の石炭商にも取り入り、影響力を強めていくんです。常に先手を
打つ、そして、熱き情熱を持ってぶつかる。これが松永安左エ門の真骨頂です」。
安左エ門は東邦電力を中心に九州、関西、東海地方などの電力会社を次々に傘下におき、最終的には約100社以上から
なる組織へと成長していきます。自身の頭にあったのは“発電から小売りまでを担う”という考えでした。
東邦電力の取り組みについて、定村館長が興味深い話をしてくれました。
「東邦電力は民間企業で初めて社内に調査部を作った会社です。1922年(大正11年)の設立から昭和15、16年までに
延べ43人の技術者をアメリカ、 ヨーロッパに送り、最先端の電力、動力技術の調査、研究を行いました。また、『戦
争と借金は別だ』という松永の考えから、5大電力のなかで唯一、戦争に突入する前にアメリカに借金を返し終えた会
社でもあります。この松永の姿勢が後の電力再編成時のGHQへの信頼へとつながり、電力九分割案が実現するのです」
。
九州・壱岐の偉人~松永安左エ門~その9
★名実ともに“電力王”になった松永安左エ門★
1922年(大正11年)に誕生した当社の前身である九州電燈鉄道と中部電力の前身である関西電気が合併して「東邦電
力」が誕生し、安左エ門は副社長に就任しました。
東邦電力は名古屋以西の1府11県に電力を供給する巨大な会社で、当時は国内5大電力会社の一角を占めていました。
ところが、安左エ門はそれに満足せず、東京電灯(東京電力の前身)と熾烈な競争をくりひろげた後、東邦電力を国
内最大の電力会社に成長させました。
名実ともに「電力王」へとのぼりつめた安左エ門に試練が訪れます。戦争が勃発し、軍部が台頭してくると、電力を
国営化すべしという声が高まってきます。
しかし、安左エ門は屈しませんでした。電力は民間でやるべしという持論を曲げず、国営化に反対し続けました。(
電業合理化の論文・写真参照)
松永安左エ門記念館の定村館長はこう話します。
「安左エ門はこの時すでに還暦を過ぎていましたが、『企業間の競争がなくなり電力事業が衰退してしまう』と全国
各地を説いて回ります。安左エ門を突き動かしたのは、師である福澤諭吉の『経済は民営化の自由競争によって安く
活発に動く』という教えです」。
しかし、その甲斐なく安左エ門の主張は受け入れられず、1938年(昭和13年)に電力は国の管理下に置かれ、その翌
年には国営の「日本発送電」に統合されてしまいました。
これに激怒した安左エ門は、抗議の姿勢を示すため、実業界の表舞台から身を引きました。
定村館長は言います。
「安左エ門は、東邦電力を解散する際『東邦電力から日本発送電の幹部は一人も出さない』と宣言したそうです。ま
た、時の政府から大蔵大臣への就任を求められましたが、これも拒否。本当に表舞台から姿を消してしまいました。
しかし、これが戦後の電力再編の大役を安左エ門が引き受けることへとつながっていくのです」と話してくれました
。
九州・壱岐の偉人~松永安左エ門~その10
★ 埼玉・柳瀬山荘での閑居生活★
実業界の表舞台から完全に身を引いた松永安左エ門は、埼玉県所沢市の山荘で閑居生活を始めます。
安左エ門の実業界での豪腕ぶりは有名ですが、茶人としても名を馳せました。「耳庵」という号(名前)を持ち、「
鈍翁」益田孝(三井物産元社長)、「三渓」原富太郎(横浜の大生糸商)と並ぶ「近代の三茶人」の一人にも数えら
れています。しかし、そもそも安左エ門が茶の世界に入るきっかけは何だったのでしょうか。
「安左エ門が茶道に出会ったのは58歳の時。親交の深かった福岡出身の実業家、杉山茂丸のすすめによるものです。
杉山は、電力王と呼ばれていた安左エ門に、『茶道を始めれば少しはおとなしくなるだろう』との思いで、茶の道に
誘ったといわれています。ところが、安左エ門は杉山の思惑とは裏腹に、仕事の手を休めることはなく、茶道にも庵
を建てるほど夢中になってしまいます。“何事も突き詰めないと気がすまない”そして“大の負けず嫌い”の安左エ
門らしさですね」と、松永安左エ門記念館の定村館長は言います。
実は、趣味は茶道にとどまりませんでした。同じく50歳を過ぎてから始めた登山にも夢中になりました。南アルプス
の名峰にも挑むなど、一度やり始めたらとことんやらないと気が済まない性格です。「登山の功績は数えきれないほ
どある」と、晩年、安左エ門は語っていますが、実はこの登山には別の目的もありました。水力発電の水源地の調査
です。電源開発に消極的な日本発送電の事業を危惧し、安左エ門は閑居の中にあっても、ひとり『次の時代の電力事
業』を考えていたのです。
九州・壱岐の偉人~松永安左エ門~その11
★74歳で表舞台に復帰★
終戦を迎えた1945年(昭和20年)。松永安左エ門が現役を退いてから、すでに10年の月日が流れていました。占領軍
総司令部(GHQ)は、日本の民主化政策として、財閥解体、農地開放、そして「日本の軍国化は電力の国営化によるも
のが大きい」との理由で、電気事業の民営化を進めます。GHQの督促を受け、時の政府(吉田内閣)が「電力事業再編
成審議会」の委員長に選出したのが安左エ門でした。
松永安左エ門記念館の定村館長はその背景についてこう話します。
「吉田内閣が『いまこの時代に電力事業ができるのはあの男しかいない』と安左エ門に白羽の矢を立てたのは、電力
事業を知り尽くしていることはもちろん、戦時中にも自由主義を主張していた安左エ門がGHQ主導の審議会の舵取りに
ふさわしいと目したからです。安左エ門自身は、10年間閑居生活を送ってはいましたが、その間に情報収集、登山を
通じた電源開発地の視察など現役復帰の思いを捨てずに精力的に動いていたので、『機は熟した』との思いでGHQの誘
いを受け入れたのでしょう」。
日本の敗戦を埼玉県所沢市の山荘で知ったとき、安左エ門は「戦争はまだ終わったわけではない。これからはワシが
先頭に立ちアメリカと経済戦争をする」と大声で怒鳴ったそうですから、経済の発展にかける思いがいかに強かった
がわかります。
戦後再建の最前線という大舞台に返り咲いたこの時、すでに安左エ門は74歳。しかし、その気迫は衰えを知らず、「
日本の復興は電力から。産業を活性化させるには、競争原理に基づく自由主義経済が必要である」との強い信念のも
と、電力民営化に着手し、発送配電一貫の9電力構想を主張しました。
九州・壱岐の偉人~松永安左エ門~その12
★電力の民営化へ★
74歳で現役に復帰し「電力事業再編成審議会」の委員長に就任した松永安左エ門は、以前から構想を持っていた「電
力9分割案」を提唱します。
電力9分割とは、既存の日本発送電の水利権を含む全ての設備を分割して9つの配電会社に所属させるというものです
。民営による発送配電一貫、電源開発も各地域で行う自主自営態勢こそが産業を活性化させると安左エ門は思い描い
ていました。
しかし、審議会の安左エ門以外の四委員、及び政官財界は9分割案に反対し、地域別の配電会社のほかに「電力融通会
社」を作る10分割案を主張、意見は激しく対立しました。
松永安左エ門記念館の定村館長は、「電力融通会社は発電設備の40%を所有することになるため本質的には日本発送
電と変わりません。『これを許せば電力の真の自由化にはならない』と安左エ門はたった1人で猛反発しました」と
話します。
審議会は十数回にわたり開かれましたが意見の一致を見ませんでした。結局、10分割案がGHQと通商産業大臣に審議会
の答申として出され、松永案は参考意見として添付される程度の扱いとなってしまいました。
しかし審議会が解散した後も、安左エ門は9分割案の重要性を講演や論文を通じて主張し続け、GHQにも足しげく通い
説得を続けます。
そして数か月を経た1950年(昭和25年11月)、ついに76歳の老人の熱意がGHQを動かし、国会の審議を通さずGHQ司令
官の決定のみで命令できる「ポツダム政令」により電力9分割案が実現しました。
「東邦電力時代、5大電力のなかで唯一、戦争に入る直前にもアメリカに借金を返し続けたことや、延べ43人の技術者
をアメリカ、ヨーロッパに送り、電力技術の調査、研究を行っていたことなど、安左エ門の取り組みは以前からアメ
リカに評価されており、GHQにも一目置かれる存在でした。だからこそ、安左エ門の主張には説得力があったのだと思
います」と定村館長は付け加えて教えてくれました。
このような経緯で、1951年(昭和26年)5月1日、当社を含む9つの民営電力会社が一斉に発足しました。
九州の偉人~松永安左エ門~その13
★電力の鬼と呼ばれる★
松永安左エ門の熱意がGHQをも動かし、ついに9電力体制が実現しましたが、戦時中の酷使や被災により、電力設備は
極めて悪い状態に陥っていました。昭和25年(1950年)に始まった朝鮮戦争による景気上昇によって電力需要は増える
ものの、民営化したばかりの電力会社には、その需要をまかなえるだけの設備はありませんでした。「資金がなけれ
ば電力の開発は叶わない。電力がなければ日本の復興もはかどらない」との信念のもと、安左エ門は電気料金の値上
げを断行します。しかもその値上げ幅は約7割増という前代未聞なものでした。
松永安左エ門記念館の定村館長は当時のことをこう話します。
「世論はこの値上げに猛反発しました。安左エ門が『電力の鬼』と呼ばれるようになったのはこの頃です。7割増とい
う数字は、安左エ門が『公益事業委員会』の委員として、徹底的に調査を行い、民営化した電力会社が確実に事業を
営むことができる採算ラインでした。世間からは常軌を逸した値上げと猛反発を受けましたが、復興のために必要な
合理的に出した数字でした。安左エ門は非難の矢面に立ったなかでも、周囲に『10年、20年すれば花は咲く』と話し
、値上げの先にある“電源開発を含めた電力事業の真の自立”を近い将来に思い描き、決して信念を曲げようとはし
ませんでした」。
電気料金の値上げはGHQの命令により、昭和26年、27年の二段階に分けられましたが、結果として安左エ門の提案通り
に行われました。
これにより、電源開発が加速。値上げから2年を経ないうちに、全国の総発電量は約3割も拡大し、復興を後押ししま
した。
九州・壱岐の偉人~松永安左エ門~その14
★電力中央研究所の設立★
昭和26年(1951年)、電気料金の大幅値上げを断行し、「電力の鬼」と呼ばれた松永安左エ門。9電力体制と同時に、
安左エ門は電気事業共通の研究所を作ることにも着手していました。東邦電力時代、海外にも多くの社員を派遣して
人材育成にも力を注いだ安左エ門。昭和23年に提出した電気事業再編成時の基本方針のなかでも、すでに「電力経済
ならびに電力技術の調査、研究を盛んにするため、必要となる機関を新設または拡充し、さらに専門家の育成も行い
、電気事業の健全なる進歩発展を図る」という項目が盛り込まれていました。こうして、昭和26年、東京・狛江に「
電力技術研究所」を設立。翌年には、電力技術研究所に「電力経済研究所」を併設し、「電力中央研究所」が誕生し
ました。この研究所は現在も電気事業の総合研究機関として、発送配電から電気利用に至るまで幅広い分野で多岐に
わたる研究開発に取り組んでいます。
ー「予が二十余年前、東邦産業研究所の所長となりし時、産業研究は、知徳の錬磨であり、もって社会に貢献するべ
きであることを悟った。但し科学の進歩は累積と推理に由り、無限の発展を遂げる性質のもので・・・(中略)・・
・しかし利己的な人間性は、社会的には、なお四千年前の哲人と比し、何らの進境を示していない。是は人間の悲劇
である。
諸氏能く之れを知り内面的な人間性の錬磨を科学の研究と共に続けられん事を祈るものである。」 ー
これは昭和32年、安左エ門が揮毫(きごう)した書「電力中央研究所に付き」に書かれている科学者の心構えを示し
た内容です。(実物は電力中央研究所 狛江本館、長崎壱岐の松永安左エ門記念館には複製が展示)
松永安左エ門記念館の定村館長は、この言葉を声に出して読んでくださった後、
「当館の展示品のなかでも私はこの『電力中央研究所に付き』に一番思い入れがあります。安左エ門の力のこもった
言葉は時代が流れても色あせず、現代人の胸に響くところがあります。来館された方みなさんもこれに見入り、『感
銘を受けた』とお話をいただきます」と話してくださいました。
九州・壱岐の偉人~松永安左エ門~その15
★産業計画会議の設立★
昭和25年(1950年)、悲願の電気事業民営化を成し遂げたとき、安左エ門は76歳になっていました。その後も電力中央
研究所の理事長として80歳にして3か月に渡る欧米視察に赴くなど、安左エ門の気力は衰えることを知りませんでした
。戦前、東邦電力時代に海外視察を通して外国の進んだ技術を目の当たりにし、国を発展させるのは民間の力である
と考えた安左エ門は、戦後改めての欧米訪問を通じてその思いを強くしました。
そして、昭和31年(1956年)、日本の経済成長のための政策提言を行う民間の任意団体、今でいうシンクタンクの草
分け的存在である「産業計画会議」を発足させました。
松永安左エ門記念館の定村館長は産業計画会議について、
「『これからは日本の再建のために各々の能力を使おうじゃないか』と、委員長である安左エ門の呼びかけに、政、
財、学、官界から、約120名の錚々たるメンバーが集まりました。発足から昭和43年の約12年間にまとめた16のレコメ
ンデーション(勧告)は、一部実現できないものもありましたが、『東京、神戸間の高速道路建設』、『国鉄民営化
、専売公社の廃止』など、現在の日本を形作っているものばかりです」と、記念館に展示されている冊子を1つずつ手
に取りながら説明してくださいました。
▼産業計画会議の詳細はこちら(電力中央研究所HP)
http://l.kyuden.jp/denken_matsunaga
九州・壱岐の偉人~松永安左エ門~その16
★晩年の松永安左エ門★
松永安左エ門記念館の定村館長に、晩年の安左エ門について、語っていただきました。
「神奈川県小田原の自宅で茶道を楽しみながら静かな暮らしを送りますが、多くの政治家、実業家が90歳を超えた老
人に相談に来ました。それほど日本の復興には安左エ門の力が必要だったという証だと思います」。
壱岐にある記念館では、晩年の安左エ門を偲ぶ展示品を多く見ることができます。その代表的な一つが「勲一等瑞宝
章」で、安左エ門は、戦後の叙勲制度復活後の最初の叙勲者の1人でした。
しかし、時の首相である池田勇人が叙勲を打診した際、「人間の値打ちを人間が決めるとは何ごとか!」と、安左エ
門は激昂して断ったといいます。その後、安左エ門は不本意ながら叙勲を受けることになりますが、抗議の意志を示
すため、紆余曲折あって叙勲式典は欠席し、遺言状にも「勲章位階、これはヘドが出る程嫌いに候」と死後を含め全
ての栄典を辞退すると書き遺しました。昭和46年(1971年)、安左エ門の訃報を受けた佐藤栄作首相が政府叙勲を即
日決定したものの、遺族は本人の遺志を尊重して辞退しました。
記念館には、瑞宝章の他にも、直筆の書や愛用した日用品も展示されています。特に人気なのは、「不老」の2文字と
「今やらねばいつ出来る。わしがやらねば誰がやる」と強い決意が記された93歳時の直筆書と、「都合の悪い時、聞
きたくない話の時は外した」と安左エ門らしいエピソードの残る補聴器です。
次回は、松永安左エ門記念館周辺の見どころ「碧雲荘」「壱岐の墓」などをご紹介します。
九州・壱岐の偉人~松永安左エ門~その17
★松永安左エ門記念館周辺の見どころ★
ここまで、15回にわたって長崎県壱岐にある松永安左エ門記念館の定村館長にお話をうかがいながら安左エ門の功績
や魅力について紹介してきました。今回は、「壱岐シリーズ」の最終回として、記念館周辺にある安左エ門ゆかりの
名所を紹介します。
記念館の裏手、印通寺港を見下ろす高台にある「碧雲荘」は、安左エ門の妹婿である熊本利平の邸宅でした(昭和16
年築)。熊本利平は明治36年朝鮮半島に渡って、農場経営で莫大な財産を築き、その後、壱岐高等女学校への寄付、
留学生の派遣、石田小学校敷地、講堂の寄付、印通寺防波堤の築造など、郷土の発展に多大な貢献をした人物です。
安左エ門は昭和34年壱岐に帰省した際、この碧雲荘を訪れ、同じ印通寺で生まれ育った熊本利平と昔話に興じたと言
われています。
また、記念館の近くには、安左エ門の「壱岐の墓」もあります。安左エ門の書が刻まれた墓石は、最期は故郷の壱岐
で眠りたいとの思いで、故人が生前に作ったものです。
安左エ門の墓は埼玉県新座市の平林寺にありますが、「壱岐の墓」にもそこから分骨され、安左エ門が安らかに眠っ
ています。
そのほか、記念館から20分ほど車を走らせた九州電力芦辺発電所横には、安左エ門が大正3年に設立し、離島に初めて
電気を灯した「壱岐電燈」の記念碑もあります。
壱岐を訪れた際は記念館を中心に、歴史に思いを馳せながら安左エ門ゆかりの地を巡ってみてはいかがでしょうか。
九州・壱岐の偉人~松永安左エ門~その18
★安左エ門が創設した電力中央研究所★
長崎県壱岐の「松永安左エ門記念館」を訪れ、これまで17回にわたり、「電力の鬼」「電力王」と呼ばれる安左エ門
の足跡を辿ってきました。第2幕は、安左エ門が創設した「電力中央研究所」の狛江運営センター(東京都狛江市)を訪
れ、所員に継承されている松永スピリッツや、安左エ門の魅力がより深まるエピソードを紹介します。
「電力経済ならびに電力技術の調査、研究を盛んにするため、必要なる機関を新設または拡充し、さらに専門家の養
成をも行い、電気事業の健全なる進歩発達を図る」。これは昭和23年に、安左エ門が電気事業民主化にあたっての答
申書に記したものです。この言葉からも分かるように、電気事業の発展には、研究機関と専門家養成が必要不可欠だ
と考えていました。
その理念のもと昭和26年、東京都狛江市に「電力技術研究所」を設立。翌年には経済研究部門を追加して「電力中央
研究所」に改称しました。科学技術の研究所に経済研究の分野を取り入れたのは「産業技術の理想論だけを追い求め
ていても駄目。実態的な経済社会との両面から研究を進めるべき」との安左エ門の思いでした。
電力中央研究所は現在も、発祥の地、狛江のほか、我孫子、横須賀の3地区を研究拠点に、電気事業の総合研究機関と
して、発送配電から電気利用に至るまで幅広い分野で多岐にわたる研究開発に取り組んでいます。
また、狛江運営センター内には、安左エ門が揮毫(きごう)した書「電力中央研究所に付き」の原本や、安左エ門の
肉声テープなども保管されています。
九州・壱岐の偉人~松永安左エ門~その19
★松永スピリッツが今も根付く電力中央研究所★
-「予が二十余年前、東邦産業研究所の所長となりし時、産業研究は、知徳の錬磨であり、もって社会に貢献するべ
きであることを悟った。但し科学の進歩は累積と推理に由り、無限の発展を遂げる性質のもので・・・(中略)・・
・しかし利己的な人間性は、社会的には、なお四千年前の哲人と比し、何らの進境を示していない。是は人間の悲劇
である。
諸氏能く之れを知り内面的な人間性の錬磨を科学の研究と共に続けられん事を祈るものである」-
これは昭和32年10月、電力中央研究所の本館が竣工した時に松永安左エ門が揮毫(きごう)した書「電力中央研究所
に付き」の内容で、科学者の心構えを示したものです。
今も本館の一室に飾られているこの書を前に、電力中央研究所・狛江運営センターの小島所長は、
「松永安左エ門は当所のシンボリックな存在です。創設から60年余り、時代とともに研究内容が進歩してきたなかで
も、『技術力と合わせて人間力を磨き、社会に貢献する』ことを説いた安左エ門の言葉は普遍的な教訓として今も所
員に受け継がれています。私自身もこの書を見るたびに身が引き締まる思いです」と話してくださいました。
また小島所長は、書とともに飾られている安左エ門の銅像を見ながら、
「安左エ門の先見性やバイタリティには舌を巻きます。“瞬間湯沸器”と言われ、理事長室から怒鳴り声がよく聞こ
えていたという話も聞いていますから、少し怖い気もしますが、願わくば一緒に仕事をしてみたかったですね」と本
音も語っていただきました。
九州・壱岐の偉人~松永安左エ門~その20
★松永スピリッツを浸透させる★
前回は、電力中央研究所の小島所長に、今なお所員に根付く松永スピリッツなどについてお話しをうかがいました。
今回は、この松永スピリッツを所内に浸透させるため、社内広報誌で松永安左エ門についても数多くの企画を立案、
掲載してきた電力中央研究所・広報グループの堀切さんをご紹介します。
堀切さんは、6年前に社内広報誌の担当に就かれました。以後、断続的に掲載している松永翁関連特集は人気が高く、
毎号楽しみにしている所員の方も多いそうです。その人気の秘密は、堀切さんご自身が取材に出かけて書く「熱い」
レポートにあります。
これまでも松永安左エ門記念館(長崎県壱岐)をはじめ、茶道具などの安左エ門コレクションを展示する福岡市美術
館、安左エ門が東邦産業研究所の建物等を寄贈した慶應義塾志木高校、また埼玉新座市の平林寺にある墓など、全国
各地の安左エ門ゆかりの地を飛び回り、その足跡や功績について取材されたそうです。
堀切さんは安左エ門について、
「『本物』に対する執念、鋭い洞察力、そして豪快さと細やかな気遣いの心を併せ持った人。このようにいろいろな
側面があることが松永翁が多くの人を惹きつける理由だと思います。私も松永翁について調べていくうちに、その熱
い信念に触発され、仕事に対する意識も変わりました。時を越え現代人の胸にも響く松永翁の生き方を、所内だけで
なく多くの人に知ってもらいたいと思い、記事を書いています」と話してくださいました。
九州・壱岐の偉人~松永安左エ門~その21
★松永安左エ門のエピソード①「電話では熱がありません」★
電力中央研究所には安左エ門の人柄、性格をうかがい知る、ユニークなエピソードや名言が多く残されています。こ
のシリーズでは同研究所・広報グループの堀切さんに、安左エ門にまつわるエピソードを紹介いただきます。
エピソード①『電話では熱がありません!』
26才の安左エ門が、福沢桃介と立ち上げた神戸の福松商会で綿糸ブローカーを始めたばかりのころ、綿糸商に素人と
見抜かれ、わざと難しい質問ばかりされたそうです。何とかその質問に答えてやろうと、負けず嫌いの安左エ門は、
何度も何度もメーカーに通って勉強したといいます。
ある日、錦糸商のところに出向こうとする安左エ門に向かって、メーカーの人が「そのくらい電話で済ませればいい
だろう?」といいました。すると、安左エ門は「電話では熱がありません(伝わりません)!」とキッパリ答えたそ
うです。安左エ門の熱い性格がよく表れていると思いませんか。
ちなみに、安左エ門は身長が180cm近くもあり、当時の日本人としては、とても大柄な体躯でした。大島紬の着流し姿
で走り回る安左エ門を見て、町の人たちは『壱岐の海賊』と呼んだそうです。
安左エ門は、後に様々な困難な場面に直面しますが、このエピソードからも垣間見えるように、どんなことにもひる
むことなく情熱をもって真正面からぶつかっていったといいます。その真っ直ぐな姿勢が多くの人の共感を呼び、後
の成功につながったのだと思います。
九州・壱岐の偉人~松永安左エ門~その22
★松永安左エ門のエピソード②「近代の三茶人のひとり」★
電力中央研究所には安左エ門の人柄、性格をうかがい知る、ユニークなエピソードや名言が多く残されています。こ
のシリーズでは同研究所・広報グループの堀切さんに、安左エ門にまつわるエピソードを紹介いただきます。
エピソード② 『近代の三茶人』
安左エ門は、茶の道では『耳庵』(じあん)という号(名前)を持ち、『鈍翁』益田孝(三井物産元社長)、『三渓
』原富太郎(横浜の大生糸商)と並ぶ「近代の三茶人」と称されています。
ふとしたことがキッカケで、58歳で安左エ門は茶道に出会います。 「他人が自分よりいい茶器を持っていることが悔
しい」と言って、高価な茶器や美術品を集めもしましたが、安左エ門のすごさはその卓越した茶人としてのセンスに
ありました。親友でもあり茶の師でもあった小林一三(阪急グループの創始者)から心を和らげて謹み敬う茶道の「
和敬静寂」の精神を学んだ安左エ門は、瞬く間に「近代の三茶人」と称されるほどの腕前になりました。
戦後は、所有していた高級茶器や美術品を帝室博物館(現在の東京国立博物館)に、所有地を母校の慶応義塾に寄贈
するなど私財を捨てて、小田原の三間しかない家に隠居し、茶道を究めましたが、本質を見抜き、いかなる圧力にも
屈することなく電気事業再編成にかけた精神力はここで培われたのかも知れませんね。
九州・壱岐の偉人~松永安左エ門~その23
★松永安左エ門のエピソード③「登山の功績は数えきれないほどある」★
電力中央研究所には安左エ門の人柄、性格をうかがい知る、ユニークなエピソードや名言が多く残されています。こ
のシリーズでは同研究所・広報グループの堀切さんに、安左エ門にまつわるエピソードを紹介いただきます。
エピソード③「登山の功績は数えきれないほどある」
安左エ門は茶道だけでなく、同じく50歳を過ぎて始めた登山にも夢中になりました。
「道を探し求める決断力が重要」
「最大の辛苦と闘い、確固たる信念を持たなければ登頂はできない」
「度胸だけでなく一歩一歩堅実に踏みしめ、軽率と不謹慎を謹む心を持つべき」
これらの言葉から分かる通り、安左エ門は登山を人生の縮図と捉えていました。電気事業再編成時の先見性、信念を
決して曲げないストイックな姿勢は、趣味の登山にも表れています。
以前にも少し触れましたが、安左エ門の登山には水力発電用の水源地調査の目的もあり、川の流れや地形など、鋭い
目で自然を観察しては、こまめに記録していきました。安左エ門の登山日記には、こうした記録が詳細に書かれてお
り、第一線を退いても実業家としての気概は寸分の衰えも見せませんでした。その一方で、採取した植物の押し花を
留め置くなど風流人としての一面も失わず、改めて安左エ門という人の奥深さを思い知りました。
九州・壱岐の偉人~松永安左エ門~その24
★松永安左エ門のエピソード④「徹底した現場主義」★
電力中央研究所には安左エ門の人柄、性格をうかがい知る、ユニークなエピソードや名言が多く残されています。こ
のシリーズでは同研究所・広報グループの堀切さんに、安左エ門にまつわるエピソードを紹介いただきます。
エピソード④「徹底した現場主義」
自分で見て納得しないと気がすまない性格の安左エ門は、徹底した現場主義を生涯貫きました。福岡に電車を走らせ
るための調査では、通行量を豆を食べる数で数えたというユニークなエピソードもあります。 また「東邦電力」に当
時画期的だった調査部を設置した時も、自らが調査部長に就任し行動部隊になっています。
ほかにも、新潟県と福島県に跨る奥只見ダムの建設プロジェクトでは、77歳の高齢にもかかわらず、自動車が入れな
いような場所にある粗末な小屋に泊まり、ドラム缶の風呂に入るなど、第一線で働く工事現場の人と苦労をともにし
ました。それは「現場にこそ本質がある」という安左エ門の信念でした。
九州・壱岐の偉人~松永安左エ門~その25
★松永安左エ門のエピソード⑤「お米を食べると頭の働きが鈍くなる?」★
電力中央研究所には安左エ門の人柄、性格をうかがい知る、ユニークなエピソードや名言が多く残されています。こ
のシリーズでは同研究所・広報グループの堀切さんに、安左エ門にまつわるエピソードを紹介いただきます。
エピソード⑤「お米を食べると頭の働きが鈍くなる?」
当時「頭のよくなる本」がベストセラーになり、「お米を食べると頭の働きが鈍くなる」という説が広まると、すっ
かり信じた安左エ門翁は食事をパンか蕎麦に改めました。これを耳にした狛江研究所の食堂も、お米をやめてパン食
にした時期がありました。
ただし、安左エ門翁がお米をまったく食べなかったわけではありません。大好物の『うな重』だけは特別だったそう
です。そのワガママなところも安左エ門らしいですね。
九州・壱岐の偉人~松永安左エ門~その26
★松永安左エ門のエピソード⑥「厳しいけれども気さくなおじいちゃん」★
電力中央研究所には安左エ門の人柄、性格をうかがい知る、ユニークなエピソードや名言が多く残されています。こ
のシリーズでは同研究所・広報グループの堀切さんに、安左エ門にまつわるエピソードを紹介いただきます。
松永安左エ門のエピソード⑥ 「厳しいけれども気さくなおじいちゃん」
安左エ門翁のことを知る70歳代の元所員に話を聞くと、所員は親しみを込めて安左エ門のことを「おじいちゃん」と
呼んでいたそうです。もちろん本人には内緒ですが。理事長室から怒鳴り声が聞こえてくるなど、よく雷を落として
いましたが、研究員に対して細かい心配りができる方でした。東邦電力時代に研究員が火事を起こしてしまった際、
責めるどころか、対応に奔走したことをねぎらい、それを支えた家族にまで感謝の品を贈ったというエピソードも残
っています。所長の小島が、『安左エ門と願わくば一緒に仕事をしてみたかった』と言っていましたが、私も同じ思
いです。理事長としての厳しさと、「おじいちゃん」として慕われ、人としての温かみがある安左エ門翁と働くこと
ができたら、きっと多くのことを学べただろうと思います。これまで色々と調べてわかった安左エ門翁の功績をこれ
からもぜひ多くの人に伝えたいと思います。
【壱岐の象徴・猿岩】
【全国の月讀神社、月讀宮の元宮】