Ⅵ 近代・現代
第十八章 平戸藩から長崎県へ
異国船現わる
徳川幕府が、鎖国方針のもと、国内の治安を保つことばかりに力を注いでいる間に、世界情勢は大きく変化し、西欧諸国はアジア進出をめざし、外国船が日本近海にも出没するようになりました。
ペリー来航の部分は省きます。
浦賀にペリーが来てなんて話から書いていたら、本格勢いになっちゃいます。
身近に身近にいきたいと思います。
実は壱岐の沖合に異国船が現れたのは浦賀の黒船来航より五年前の嘉永二年(1849年)みたいです。
早いですよね、なんなんだこの岩はと思ったかどうかは定かではありません。
一応、島と認めたでしょうね。
西欧諸国とは主にイギリス、アメリカ、フランス、アメリカ、オランダでしょうから、イギリスなんて島国ですから。
こじつけですが。
壱岐の防備体制
幕末の壱岐の防備体制を堅めるために平戸藩ではいろんな準備を命じています。
しかし、対馬は対馬藩、壱岐は平戸藩、不思議ですよね。まあ、いつか説明しますが。
『壱岐郷土史』には寛政十年(1798年)の人別帳には若宮島(勝本、辰の島の隣)遠見番所組があり、両組には各小頭一名、定番二名、足軽十六名、計十九名が配置されています。
※新漁法の発見
玄界灘に浮かぶ壱岐の島の北に勝本港があります。我が故郷です。ここは、ブリやイカがよく釣れる九州でも第一の漁港で有名なところである(恐らく昭和30年代から50年代と思われる)。
この地で玄海の荒波と戦い研究に研究を重ね、今日の漁業の基礎を築き上げたのが中上長平である。長平はブリ、イカ、タイなどの新しい漁場を発見したり、新しい釣りに道具や漁法を発明したりして漁業を大きく発展させたので、村の人々から『漁の神様』として大変尊敬された人だそうです。
その後、異国船はニ月四日と十一日にもまた現れました。そして、三月二十六日と三十日にも現れました。この時は壱岐の兵力を二つに分け、交互に警戒をさせました。
【壱岐の象徴・猿岩】
【全国の月讀神社、月讀宮の元宮】