天比登都柱(あめのひとつばしら) それは夢の島・壱岐
また神の世界と地上の世界を結ぶ一本柱の國、それが壱岐

どうぞ、食を文化をご堪能ください

宮崎県(宮崎市)・青島神社

荘厳でしたよ。

日南海岸へ行く途中に小さな島みたいになってって、その島にそびえ立つ青島神社。

立派でしたね。

周辺を、案内のおばさんが『一周はしなくていいと思うけどね』と言われたものの一周。

息切れが(汗)。

宮崎キャンプなど訪れた際は、是非、立ち寄ってほしいものです。

あっ、全てがジャイアンツファンとは限らないか(汗)

ちょっと、駐車場の奪い合いみたいなおばちゃんたちが鬱陶しかったけどね。

神社そのものは、素晴らしいよ。

是非~♪


青島神社
所在地:〒889-2162 宮崎県宮崎市 青島2-13-1
電話:0985-65-1262

【Official Site】



























青島神社(あおしまじんじゃ)は、宮崎県宮崎市青島にある、青島のほぼ中央に鎮座する神社で、周囲1.5kmの青島全島を境内地とする。旧社格は村社で、現在は神社本庁の別表神社。
青島は全島が熱帯・亜熱帯植物の群生地として、国の特別天然記念物に指定されている。

祭神
天津日高彦火火出見命(あまつひだかひこほほでみのみこと。彦火火出見命とも)とその妃神 豊玉姫命(とよたまひめのみこと)、そして塩筒大神(しおづつのおおかみ)を祀る。

いずれも山幸海幸神話に因む神で、縁結び、安産、航海安全の神として信仰を集めている。

由緒
元来は海洋に対する信仰によって創祀されたと考えられ[1]、古くから青島自体が霊域として崇められており[2]、そこから後述するように江戸時代まで全島が禁足地とされていた。社伝によれば、山幸海幸神話で、彦火火出見命が海神宮(わたつみのみや)から帰還した際に青島に上陸して宮を営んだため、その宮跡に命と上記2柱の神を祀ったのに始まると伝えるが[3]、寛文2年(1662年)の大地震で旧記古文書類を失った為に創祀の古伝を詳らかにしえないという。

神社の旧記によれば、平安時代の日向国の国司の巡視記とされる『日向土産』なる書に「嵯峨天皇の御宇に奉崇(あがめまつる)青島大明神」と記され当時既に崇敬されていたと伝え、その後文亀3年(1503年)に伊東尹祐によって再興されて以降、伊東氏の篤い崇敬を受け、大永3年(1523年)、天正6年(1578年)、貞享4年(1687年)、寛保2年(1742年)、明和4年(1767年)、文化5年(1808年)と6度にわたる社殿の造営・改修や、境内の保全事業が行われた。また、飫肥藩時代は藩士の中で土器(かわらけ)格の者1人を島奉行に任じ[5]、島内の樹林や磯辺を監守させた他、牛馬を渡島させたり発砲を禁じたりと一切の汚穢を警戒させていた。元文2年(1737年)まで入島は神職と島奉行のみに限られ、村民は対岸の尖浜(現青島海水浴場)に拝所を設けて遙拝していたが、当時の神主であった長友肥後が藩主に解禁を申請し、以来一般人の渡島参詣が可能になった。

明治4年(1871年)村社に列し、戦後は神社本庁の別表神社に指定された。

祭祀
神事
10月18日の例祭(秋祭)以外に、以下の神事が著名である。
春祭(旧暦3月16日) - 往古はこの日から月末までの半月間は、一般の入島が許されていたため、今でも「島開き祭」と呼ばれる。因みに旧暦3月末日は「島成就」と呼ばれ、かつては一般の入島を禁じる島止祭が行われていた。
夏祭(旧暦6月17・18日) - 対岸の折生迫まで神輿の渡御が行われ、白浜海水浴場 から漁船に載せて青島を2周して、折生迫漁港のお旅所に1泊して還御する神幸祭である。神輿の渡御は古くから行われていたが、氏子漁民の願いによって、昭和23年(1948年)から海上渡御も行うようになった。
冬祭(成人の日)) - 彦火々出見命が海宮から帰還した際に、村人が服を着る暇もなく出迎えたという故事に因むものと伝え、かつては旧暦12月17日の夜半から夜を徹して、近在の若い男女が真裸になって参拝していたため、「裸参り」とも呼ばれ、これを行うは千日参詣に等しいとされた。現在は氏子青年や信者が海水に浴して、静かに祈願する形に変わっている。
祠官
長友氏が社家として勤める。口碑に、社家は古く青島背後の下加江田村という200戸程度の村落に居住したが、同村は寛文2年の大地震で水没したという。
社殿[編集]
本殿は流造、拝殿は切妻造平入で、ともに銅板葺(明治15年(1882年)までは板葺であった)。現在の社殿は昭和49年(1974年)に火災で全焼した後、再建されたもの。


 




 

【壱岐の象徴・猿岩】

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【全国の月讀神社、月讀宮の元宮】 

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