壱岐七社とは?
壱岐国の代表的式内社を七社巡る 神功皇后の伝承や桓武期の八幡勧請
「壱岐七社参り」
壱岐七社(いきななしゃ)とは、壱岐国の式内社の中の七つの神社の総称。壱岐七社めぐり、壱岐国七社、壱岐島大七社など。現在の長崎県壱岐市、九州本土と対馬島の間に浮かぶ壱岐島内。
神功皇后の三韓征伐か、桓武天皇の御世における八幡勧請か、が由緒となっていることが多く、住吉、八幡の比率が高い。いずれも江戸期、平戸藩主が特別に崇敬した神社。そのため、国主直参社などとも。いずれも例祭などでは神幸式、流鏑馬の神事があり、城代が参詣した。参考として壱岐国一宮とされる天手長男神社は含まれていない。
この行事は勝本浦では船団ごとに正月2日に参拝している。僕は漁師じゃないので身近じゃなかった。「しっちゃまいり」なんのことだろう的に😅
あー、七社だろうと気づいた。だから「しっちゃ」なのかとw
これが同級生の漁師たちも行く。
元旦に飲み過ぎてようが行く(笑)
ある意味、伝統行事だけに続いてほしいね。
壱岐七社(いきななしゃ)とは、壱岐国の式内社の中の七つの神社の総称。壱岐七社めぐり、壱岐国七社、壱岐島大七社など。現在の長崎県壱岐市、九州本土と対馬島の間に浮かぶ壱岐島内。
神功皇后の三韓征伐か、桓武天皇の御世における八幡勧請か、が由緒となっていることが多く、住吉、八幡の比率が高い。いずれも江戸期、平戸藩主が特別に崇敬した神社。そのため、国主直参社などとも。いずれも例祭などでは神幸式、流鏑馬の神事があり、城代が参詣した。参考として壱岐国一宮とされる天手長男神社は含まれていない。
古代から、少なくとも近世、あるいは近代まで、朝鮮半島も考慮に入れた上で、日本にとって壱岐は要衝中の要衝。そこに多くの神社が建てられ、その一つ一つが朝廷から極めて重視され、結果的に現在、1000年以上にわたって厚く祀られてきた神社ばかりであり、大いなるパワースポットの数々とも言える。
現在でも、正月に豊作、大漁、家内安全、健康長寿を祈願して七社参りする島内外の住民は多い。一説には、七社参りをする時には、時計回りに参拝し、後ろを振り向いてはいけない、とされている。そのように言われている回り順で、一覧にしてみた。
。
この壱岐という福岡市からジェットフォイルで1時間、フェリーで2時間10分の距離の島に。
また、長崎県の遺跡の6割が壱岐にあると言われています。
温泉も神功皇后が産湯に使ったと言われ、1700年の歴史の温泉です。
温泉の色も珍しい『赤湯』と呼ばれる珍しい色です。
01住吉神社 (芦辺町住吉東触)
縁結びの夫婦クスノキ
住吉三神を祭る住吉神社。国道382号線の脇に建つ明治期の一の鳥居や、平戸藩主によって寄進された二の鳥居を抜け境内へ進むと、どっしりとした巨大なスギやクスノキが目を引く神秘的な空間が広がっています。境内の「夫婦クスノキ」を男性は左回りに、女性は右回りに回ると縁結びにご利益があるとされ、人気を集めています。
02本宮八幡神社
神宮皇后由来の鎮懐石
一説によると、桓武天皇延歴7年(788)の外冦に際して、壱岐に5社を勧請したうちのひとつ。本宮八幡神社では、大分県の宇佐神宮から勧請したのが起源とされ、三韓征伐の際に応神天皇を身ごもっていた神功皇后が出産を遅らせるために使用したとされる「鎮懐石」や、日清戦争と日露戦争の勝利を祈願した石灯篭なども必見です。
03聖母宮
裏門や石造など社宝も必見
奈良時代初期の創建と伝えられる聖母宮は、「壱岐国二の宮」と称されるほどの歴史ある神社。三韓出兵の際に神功皇后の気合いが愛馬に乗り移って蹄の跡が付いたとされる馬蹄石、加藤清正が寄進した表門と社地廻りの石垣、肥前佐賀藩の藩祖である鍋島直茂寄進の裏門、名工山内利兵衛の壱岐牛の石像などの社宝も見逃せません。
04箱崎八幡神社
海の男の守り神として信仰
豊玉毘古命や玉依姫命など海の神様を祭る箱崎八幡神社は、航海安全や大漁祈願などに御利益があるとされ、古くから壱岐で、海の男たちの守り神として親しまれている神社です。境内には、捕鯨発祥の地である紀州熊野浦の日高弥吉が奉納した「明応二年(1493)」の銘が刻まれた一基の金灯籠や壱岐で最も古い狛犬などもあります。
05白沙八幡神社
三十六歌仙の絵や天然記念物の社叢
境内に足を踏み入れると、うっそうと生い茂る青々とした木々と重厚感あふれる社殿が目に飛び込んできます。漁業で繁栄してきた壱岐の人々に古くから愛されてきた神社の一つで、拝殿の天井に掲げられた三十六歌仙の絵や、長崎県指定天然記念物に選ばれるほどの社叢(しゃそう)など、見応えのあるスポットが点在しています。
06國片主神社
ミニ鳥居が並ぶ願掛け鳥居
壱岐のへそである国分に鎮座する國片主神社(くにかたぬしじんじゃ)は、嵯峨天皇弘仁2年(811)の創建とされる歴史ある神社。菅原道真を祭っており、学力向上や豊作祈願、厄除け、健康長寿などに御利益があるとされています。3つのミニ鳥居が並ぶ「願掛け鳥居」をはじめとする境内に多彩な願掛けがあることでも有名です。
07與神社
平戸藩初代の名刻む鳥居
現在の「壱岐一の宮」は天手長男神社ですが、かつては、原の辻遺跡近くに鎮座する與神社が「壱岐一の宮」と称されていました。神社の長い歴史を物語るように、江戸時代に建てられた本殿や平戸藩の初代藩主であった松浦鎮信の名が刻まれた鳥居、生命力あふれるホルトの木など、境内には見逃せないスポットもそろっています。
壱岐島(いきのしま)は、九州北方の玄界灘にある南北17km・東西14kmの島である。九州と対馬の中間に位置する。『古事記』によれば、別名を天比登都柱(あめひとつばしら)という。
周囲には23の属島(有人島4・無人島19)が存在し、まとめて壱岐諸島と呼ぶ。ただし、俗にこの属島をも含めて壱岐島と呼び、壱岐島を壱岐本島と呼ぶこともある。官公庁の定義では「壱岐島」と呼ぶ場合、周囲の属島は含めない。
現在は長崎県壱岐市の1市体制で、長崎県では島内に壱岐振興局(旧・壱岐支庁、壱岐地方局)を置いている。また、全域が壱岐対馬国定公園に指定されている。
地理
佐賀県北端部の東松浦半島から北北西に約20kmの玄界灘上に位置しており、対馬海峡を隔てた北西海上に対馬がある。航路の距離は福岡市の博多港から島の南西部の郷ノ浦港までが約67km、東松浦半島の呼子港(唐津市)から島の南東部の印通寺(いんどうじ)港までが約26kmである。
属島は原島・長島・大島・若宮島の4つの有人島と、19の無人島がある。
集落の形成
島内は、農業集落と漁業集落に大きく分けられる。農業集落は「在」(ざい)と呼ばれ、散村の形態をとるのに対し、漁業集落は「浦」(うら)と呼ばれ、集村の形態をとる。そして、それぞれ農村集落には「触」(ふれ)、漁業集落には「浦」が地名の末尾に付く。「触」の語源には、江戸時代の村方三役のうち扨頭(さすがしら)が藩命を触れ回った範囲の呼称に由来するとする説と、朝鮮語のプル(村の意)に由来するとする説がある。
「触」「浦」は、現在も壱岐市の行政区画である字の単位として用いられている。
気候・自然
岳ノ辻
島の大部分は玄武岩に覆われた溶岩台地で、高低差が小さい。最高峰「岳ノ辻」は標高212.8mで、島の8割は標高100m以下である。岳ノ辻は約170万-140万年前(第4期)、100万-60万年前(第5期)に火山活動をしていた。溶岩台地以外では、北部に古第三紀始新世の堆積岩である「勝本層」、中部と南部に新第三紀中新世の「壱岐層群」が見られる。また、約1万年前までは九州と陸続きだったと考えられている。川は中部の幡鉾川と北部の谷江川があり、両方とも東向きへ流れるが、他は小河川である。
暖流の対馬海流が対馬海峡を流れる影響もあり、気候は比較的温暖である。天気予報では「壱岐対馬」と一括して表示されることが多いが、自然環境の特殊性は対馬ほど強くなく、九州北部に近い。また、平坦な地形は田畑として利用されやすく、古来より自然環境への人的な影響が強かった。照葉樹林は島の各地に残るが、大規模な原始林は無い。
渡良のアコウが自生北限地であることと、陸続きだった九州北部と共通した淡水魚相が残ることが特徴である。ただし、淡水魚は相次ぐ河川改修を経てオオクチバスやブルーギルが放流された現在では、数種が絶滅したと考えられている。
なお、春先に吹く強い南風のことで、今では気象用語となっている「春一番」の発祥の地は壱岐である。江戸時代の幕末期の1859年(安政6年)に「春一番」と呼ばれていた季節性の強い南風により地元の漁師が大勢遭難した海難事故をきっかけに広まったもので、1987年(昭和62年)には、郷ノ浦港入口の元居公園に船の帆をイメージした「春一番の塔」が建立された。
古墳時代
双六古墳
壱岐島分寺跡
河川の流域や島の中部、各地に横穴式石室墳群が分布している。前方後円墳は、長崎県内最大の勝本町百合畑触の双六古墳をはじめとして数基が存在する。後期(6世紀)になると、島の中央部に鬼の窟古墳・笹塚古墳などの巨石石室墳が築造される。鬼の窟古墳の近くには島分寺があり、壱岐直の住居を寺としたとの伝承がある。これらの巨石石室墳を、壱岐直の墓との推定も可能である。郷ノ浦町鬼屋久保古墳の横穴式石室の奥壁には、線刻で帆船とクジラと認められる画が描かれており、これは回遊するクジラを集落で浦に追い込んだ様子を描いたと考えられる。
律令制
令制国としては、壱岐国となった。『和名抄』には壱岐郡と石田郡の2郡と11郷が伝えられる。原方と山方に相当する。壱岐値は壱岐県主で、中央に出仕した伊吉連や雪連は一族であると考えられる。
平安時代の1019年(寛仁3年)には、女真族(満州族)と見られる賊徒が高麗沿岸を襲い、さらに対馬・壱岐にも現れた。この時、壱岐国国司・藤原理忠は賊徒と戦い、討ち死にしている。一通り略奪を繰り返した後は北九州に移り、そこで藤原隆家によって鎮圧された(刀伊の入寇)。
中世・近世
中世には松浦党の勢力下に置かれた。鎌倉時代中期、モンゴル帝国(大元ウルス)とその属国・高麗により二度にわたり侵攻を受ける。一度目の文永の役の際には、壱岐守護代・平景隆ら百余騎が応戦するが、圧倒的な兵力差の前に壊滅して壱岐は占領され、島民が虐殺を受けるなど大きな被害を受けた。
続く弘安の役でも元軍の上陸を受け、大きな損害を受けたが、博多湾の日本軍による逆上陸を受け、苦戦を強いられた元軍は壱岐島から撤退した(壱岐島の戦い)。江戸時代には松浦党の流れを汲む平戸松浦氏が治める平戸藩の一部となった。
近現代
1871年(明治4年)廃藩置県の際には平戸県に属し、その年には再編により長崎県の一部となった。島内にあった2つの郡は1896年の郡区町村編制法で統合され、壱岐郡1郡となった。自治体としては、1889年(明治22年)の町村制度施行当初は壱岐郡に7村、石田郡に5村の計12村が発足したが、町制施行や合併を繰り返し、昭和の大合併を経て1970年(昭和45年)までに郷ノ浦町・勝本町・芦辺町・石田町の4町に再編された。2004年3月1日、平成の大合併によりこれら4町が合併して市制が施行され、壱岐市が誕生した。
産業
農業・漁業といった第一次産業が中心である。戦後に葉タバコの栽培と肉用牛の生産が盛んになった。
特産品としては焼酎が有名である。麦焼酎発祥の地で、世界貿易機関から壱岐焼酎として保護産地指定を受けている。肉用牛も壱岐牛として特産品化している。また、海産物の特産品も多い。
レオタードを着ての漁
壱岐島の東部・八幡(やはた)地区では、今も海女が古(いにしえ)の海人族からの伝統の潜水漁を営んでいるが、ウェットスーツではなく、レオタードを着て海に潜っている。これは、八幡では昔から乱獲を防ぐため、ウェットスーツの着用を禁止しているからである。
伝統漁の「海女」と「レオタード」を組み合わせて「レオタード漁」と呼ばれることがある。
八幡の海女の仕事は5月1日から9月末までとなっている。
文化
祭事
郷ノ浦祇園山笠(7月)
壱岐神楽
催事
壱岐の島新春マラソン大会(1月)
壱岐綱引大会(2月)
一支国ウォーク(3月)
壱岐オープンテニス大会(5月)
壱岐サイクルフェスティバル(6月)
辰の島フェスティバル(7月)
壱岐の島 夜空の祭典(8月)
一支国幼児相撲大会(9月)
壱岐ウルトラマラソン(10月)
湯本温泉港まつり(10月)
交通
国道382号が島の北西部から南西部へそして南西部から南東部へ"L"字型に貫き、主要県道が国道と各地域をつなぐ。鉄道はなく、壱岐交通が路線バスを運行している。
島外との連絡
南西部に郷ノ浦港、南東部に印通寺港、東部に芦辺漁港、北部に勝本港が設置されている。町の南東端には壱岐空港がある。
郷ノ浦港
九州郵船により、博多港(福岡市)および対馬との間を結ぶフェリー・ジェットフォイルが運航されている。車両航送を伴わない旅客は、高速のジェットフォイルを主に利用する。また、壱岐島の属島である原島・長島・大島への航路も、壱岐市により運航されている。
印通寺港
九州郵船により、唐津東港(佐賀県唐津市)との間を結ぶフェリーが運航されている。かつてこのフェリーは長崎市と唐津東港を結ぶ高速バス「レインボー壱岐号」と連絡し、長崎市と壱岐を結んでいた。なお、レインボー壱岐号は2012年3月31日をもって廃止された。
芦辺港
九州郵船、壱岐・対馬フェリーにより、博多港および対馬との間を結ぶフェリーと、九州郵船によるジェットフォイルが運航されている(法的には港湾ではなく漁港である)。
勝本港
勝本町漁協と辰の島観光の2社が、夏場のみ定期航路として壱岐北部の辰の島を結んでいる。オフシーズンは予約制の不定期航路となっている。
壱岐空港
オリエンタルエアブリッジにより、長崎空港への航空便が運航されている。