天比登都柱(あめのひとつばしら) それは夢の島・壱岐
また神の世界と地上の世界を結ぶ一本柱の國、それが壱岐

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勝本浦郷土史92

勝本浦郷土史92

  二九 イワシの抄い網が始まり、集魚灯に発電機が始めて登場する。
   二九 漁協青年部機関誌漁青の友(四号よりすなどりに改名)発行される。
   二九 この年動力船二二一隻、無動力船一六二隻、計三八二隻(一〇年間に倍増)
   三〇 鹿の下川崎嘉一郎の敷地を譲り受け、翌年信用部事務所を新築する。
   三〇 この頃保戸船によるサンマタグリ鯛釣り、シヤ曳き、ボンボン等の漁法教わる。
   三〇 海上保安部勝本分室、乗越旧校舎跡に開室される。
   三〇 青年部たぐりにゴムエバを改良研究して、優良なる擬似餌を案出する。
   三〇 第二勝漁丸進水する。
   三〇 一〇 湯の本港湾、第一種漁港として指定をうける。
   三一 組合の内部組織を強化するため参事制を設ける。
   三一 信用部事務所建設する。
   三一 この頃からイカの自家加工が徐々に行われ、昭和五五年まで続いた。
   三一 漁業不振が強まる中で、勝本漁協先達漁船団結成する。
   三一 八 漁船急増のため第二荷捌所を、本浦製水所浜に設ける。
   三二 近代化資金による融資制度始まる。
   三二 壱岐郡各単協にて、毎年交互に漁礁を一〇〇個宛投入しているが、勝本漁協は単独で、漁礁建設事業として、五ヵ年計画で五〇〇個を投入する。
   三二 仲折にするめ加工場を、湯田にうに加工場を建設する。
   三二 一二 第一集荷場狭隘のため、地先一四二平方米埋立て拡張する。
   三三 鯛の豊漁が続いたが鮮度がわるく安価で、漁価の向上と、生産性の向上を計るため、鯛一本釣組合結成される。(初代会長 中村松義)
   三三 五 熊本長太郎、勝本漁業協同組合長となる。
   三三 この頃より勝本漁船に魚群探知機普及する。
   三四 この頃から勝本漁船デイゼル機関の導入据付け始まる。
   三四 漁業組合の用地として、弁天波止北側に五〇米の護岸を造り埋め立てる。
   三五 ナイロン製漁網及び綱導入される。
   三五 一部漁協婦人部に月給制採用されたが、四五年に廃止となる。
   三五 三 鯨伏漁業青年部結成される。(初代部長 磯田茂)
   三五 この頃の動力船の隻数三三〇隻、平均馬力六・八馬力。
   三五 水産物改善事業として、水産製品倉庫を建設した。画積六〇坪。
   三六 以東底曳網の法案化に反対猛運動を起こし、これを阻止した。
   三六 この頃漁船にトランシーバーが装備されるようになり、急速に普及する。
   三六 勝本の船を湯の本に分散計画を樹て之を実施する。
   三七 三月 海上保安部勝本分室廃止となる。
      二一日
   三八 一 勝本漁業協同組合、鯨伏漁業協同組合、合併する。(正組合員一〇八名加入)
   三八 三 第一資材倉庫木造平家建三二坪建設。
   三九 湯の本漁港整備計画着工される。(第三次漁港整備計画による)
   三九 指導船第五勝漁丸進水、一九・九トン、二〇馬力。設備としては、魚群探知機、ロラン無線機、発電機等を設備する。
   三九 漁船の急増と大型化に伴い、扱い高も増大、配油に混雑を来すようになり、大型給油船を建造する。鉄鋼船一〇・九トン、二二馬力、計器一式。
   三九 全ブリ一本釣り組合結成される。当初は八支部であったが、四五年一六支部の大きな団体となる。(初代会長 大久保巌)
   四〇 三月 突風災害により、動力船数隻沈没、四〇余隻大破、又は損傷をうける。
      一七日
   四〇 手長島定置網漁業に着手、七年間続行されたが、欠損金を出して中止される。
   四〇 漁船の急増と巻落し操業の餌料保管施設又は、短期畜養施設 生簀の餌料確保のため、湯田埋立地に三〇トン冷蔵庫建設する。
   四〇 一〇月 従来の漁祭りを港祭りとして諸行事を盛大に行う。
      一五日 

 




 

【壱岐の象徴・猿岩】

猿 岩

 

【全国の月讀神社、月讀宮の元宮】 

月 讀 神 社